私は児童書を書くことを生業にしている。それはつまり、子どもたちに希望を語ること、この世は生きるに値すると伝え続けることである。しかし、私も人間なので、そういった言葉が遠く感じられてしまうときもある。独りぼっちで、人を、未来を、この世界を信じられなくなったとき、私は自らの魂の暗い部分に降りていく。
ゴシックは好悪の体系であり、しかしそれは命がけの好みであると著者は言う。死と暗黒、怪奇と恐怖、残酷、異形、廃墟と終末……。理知的に、そしてどこまでも誠実な眼差しで語られるゴシックの精神。私はページをめくり、幻想の暗闇へと逃げこむ。真っ暗な情緒の中で――しかしそれは現実社会という太陽の下の苦しみよりずっとましなものだ――私は眠れる魔物のように、そっと呼吸をくりかえす。それは相変わらずろくでもないこの世界への抵抗のひとつの形である。
そして、暗闇の中で、ある程度心を休めた私は、次にささやかな光を探しはじめる。それはいわゆるユーモアというやつのことだ。休息の後に必要なのは栄養であり、笑いは心のビタミンである。というわけで、二冊目に紹介するのはこちら。
千年の都・京都、糺ノ森に暮らす狸の名門・下鴨四兄弟は三男、矢三郎の物語だ。父である下鴨総一郎は、狸界の頭領である「偽衛門」だったが、数年前、「金曜倶楽部」の手に落ち、狸鍋にされてしまう。父の後を継ごうとする長男の矢一郎。やる気なく怠惰で、カエルに化けて井戸の底に隠居した次男の矢二郎。気弱な末っ子矢四郎。落ちぶれた天狗である赤玉先生や、金曜倶楽部の一員にして、矢三郎の意中の相手である美女・弁天。下鴨四兄弟のいとこでありライバル、夷川家の金閣・銀閣……。そんな色とりどりのキャラクターが、京都の街をわらわらとかけめぐるこのファンタジーは、いわば狸版スター・ウォーズともいうべき大スペクタクルで、後半になるにつれ「ここまで広げた大ぶろしきをどう畳む気でいるんだ?」と心配になること請け合いである。
自分で紹介しておいてなんだが、一冊目と二冊目の落差がひどい。サウナみたいなものだと思う。独りぼっちで、ひたすら落ち込んだとき、私はゴシックと狸で精神を整える。そして、なんだかんだ、「この世はまだ捨てたものじゃないな」と思えたら、児童書作家の仕事に戻るのだ。