震災1年で撮影したビデオテープは1万本に
1995年1月17日に起こった阪神・淡路大震災。震源地から離れていたとはいえ、私の大阪の自宅も過去に経験したことがない揺れを感じました。
在阪放送局の報道編集に勤務していた私は、不安な表情を浮かべる家族を尻目に市内にある職場に向かいました。
車で家を出たのですが、すごい渋滞で動きそうもなくすぐに引き返してきました。と、そこまでは記憶にあるのですが、その後どうやって職場にたどり着いたのか、実は全く覚えていません。
電車はもちろん動いていません。徒歩なら3時間ほどかかるはずなのですが、不思議なくらい記憶が飛んでいます。とにかく職場に着いてからは、編集漬けの毎日でした。
被災地にはカメラマンが総動員され、日々のニュースや企画、ドキュメンタリー制作のために大量のビデオテープを回していました。
震災から1年も経つと、そのテープの量は膨大な数に上ります。一本に20分録画できるビデオテープが、最終的には1万本を軽く超えていました。
とにかく毎日テレビ局に戻ってくるテープの数は膨大です。夕方のニュースに間に合わせるため、大慌てで必要な箇所だけ見て編集し放送するということも多かったので、そのときに見ていない部分は、誰にも見られることなくラッシュ(撮影された映像素材のこと)の山の中に埋もれてしまいます。
過酷な現場でカメラマンが撮影したテープがたった一度使っただけで、あるいは誰にも見られることなく、放置されているのは、映像を生業にしている私には辛いことでした。
そこで、泊まり勤務や少し手が空いたときなどにテープを一本一本見て、将来使えそうな映像は別のテープにダビングし、元のテープは消去していくことにしました。
残す素材を決めるというのは大変難しいことですが、どこを見て決めていたのかというと、変化していく風景はもちろんですが、やはり人物です。何年か経ってから、この未曽有の震災を振り返るときにその後の半生を神戸の復興とともに語ってくれそうな人。
テレビ用のポーズをとる人もいましたが、口下手でもリアルな言葉を発する人を残しました。あとは子どもです。将来的にこの子だったら、しっかりと育って10年、20年後には自分の言葉を持つ青年になるであろうと感じた子どもを探しました。
大災害が起きると、1カ月、1年、5年、10年と節目節目で特番や企画を必ず作ります。そのときに、過去の映像は大変重要な素材になります。必ず大きな価値が出てくることはわかっていたので、その保存作業に没頭したのです。