自身の財産であるビデオテープを「消せ」というテレビ局員
実はこのテープの整理には、あるきっかけがありました。日々増え続けるビデオテープのため、急ごしらえのテープ棚が次々と設置され、それらの棚は報道編集の廊下を侵食していきました。当時、関西のどのテレビ局も同様の事態に陥っていたはずです。
震災から1年も経つと、問題になるのがその膨大なテープの処理です。山積みのテープをどうするのか判断しなくてはいけません。そして出された指示は、「要らないテープはすぐに消去に回すように」というものでした。
凄まじい勢いで消費されるビデオテープの経費も大きな問題です。消去すればそのテープを再び取材テープとして再利用できるのですから当然の指示です。
しかし、要らないテープといっても、そのほとんどはどんな映像が入っているのか担当した者にしかわかりません。担当者にいちいち聞いて回ることも大変ですが、聞いたとしても担当者にしてみれば、この先どう話が広がるかわからないので保存してほしいと言うに決まっています。
そうこうしているうちに、いよいよスペースもなくなってくる。ついには「本当に重要なわずかなテープ以外は消去しろ!」という厳しい命令が下りました。私はそれに猛反発しました。私には、テレビ局の唯一の財産はライブラリーであるという確信がありました。
当時はインターネットも台頭し始めていました。テレビ局の保有するライブラリーは、そのニューメディアに唯一対抗できる武器だと思っていたからです。
映像に映っている子どもたちが成人したとき、これらの映像は、それだけでドキュメンタリーが作れるほどの貴重映像になる可能性があるのです。実際、震災時にペットボトルで水を運んでいた印象的な子がいました。
10周年の特番でその子を探し出して番組を作ったところ、10年という時間の経過がわかる、とても奥行きの深いものになりました。それは結実した例ですが、よしんば、保存した大半の映像がムダになってもいい。それがライブラリーというものです。
そのときは何ということもない画かもしれませんが、時間の経過とともに物凄く大きな意味を持ってくることもあるのです。
ましてやカメラマンが過酷な現場で必死に駆けずり回って拾ってきた貴重な映像を、ほとんど見もせずに消去してしまうなんてことは絶対にできない。それはプロの編集者としての私の考えでした。
テレビ局員が自身の財産を「消せ」と言っているのを、外部の私が「それは駄目だ」と対抗しているのは、少々おかしな構図ですが。