学童疎開船「対馬丸」の悲劇

私はテレビの映像編集者ですが、何度か自ら企画を立て、取材に行ったことがあります。その中でも、学童疎開船「対馬丸」の取材に行ったことは印象に残るものでした。

太平洋戦争末期の1944年、沖縄ではいずれ訪れる米軍との戦いから幼い命を守ろうと、子供たちを本土に疎開させることにしました(日本軍側にとっては、子供たちは戦闘の足手まといになるとの判断でした)。そのとき使われた船のひとつが貨物船だった対馬丸でした。

対馬丸
対馬丸
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800人以上の学童を含む教師、付添人ら1661人を乗せて、疎開先の長崎へ向けて出港。しかし、目的地を間近にした深夜、アメリカの潜水艦「ボーフィン号」に捕捉されてしまいます。この潜水艦の魚雷攻撃によって、対馬丸は一瞬にして沈没。大勢の幼い命が暗黒の海の底に沈んでいったのです。

この対馬丸の護衛にあたっていた2隻の護衛艦は、子供たちをひとりも救助することなく、一目散に逃げ去りました。海中から浮かび上がった人たちは、漂流物につかまりながら何日間も漂流。その間にも多くの人たちが亡くなりました。結局、助けられた児童はわずか59人だけでした。軍は生き残った人たちにかん口令を敷き、沖縄の家族にすら事実を隠ぺいしたのでした。

発見された「対馬丸」

私はこの対馬丸のことは知ってはいたのですが、後になって知人のご兄弟がこの船に乗り合わせて亡くなっていたことを知りました。そして、撃沈から53年が経った1997年12月、鹿児島県の離れ小島、悪石島の約10キロ沖、水深870メートルの海底に沈む対馬丸が確認されたのです。

国は1998年3月、対馬丸の遺族や関係者を沈没地点まで連れて行き、船上慰霊祭を行うと発表。私はこの慰霊祭に参加する知人の同行取材を思い立ち、編集者でありながらこの対馬丸の企画を報道部に申し入れ、取材できることになりました。

映像編集者である私は取材ディレクターとしては素人です。しかし、編集者が取材をすることにはメリットもあります。編集者は頭の中で必要な画やシーンなどを計算しやすいため、撮影が必要最小限で済むのです。

私がこれまで取材に行った企画では、ラッシュ(撮影した素材)の量が通常と比べあまりに少ないため、周囲から不安視されることもありましたが、放送に使える量は常に計算できていましたので、心配はありませんでした。とはいえ、このスタイルがいい作品に結びつくかどうかは別問題ですが…。本題に戻りましょう。