官僚主権を支える信仰の理由
官僚国家である日本には政治家がいません。ドイツの社会学者マックス・ウェーバー(1864〜1920)が言っているように、「最良の官僚は最悪の政治家」で、官僚というものは、選挙で選ばれていないから国民を見る必要もないし、国民に対する責任も感じていません。
右肩上がりの成長をめざし、前例主義でこれまでどおりのことを続ける。お金が足りなくなってくると、国民に負担を押しつける。財務省は税金を上げる。厚労省は保険料を上げる。
それまでやってきたことを見直す発想もない方々ですから、官僚に任せていると経済は当然肥大化するし、国民からすると負担が増えるに決まっているわけです。
それに対して、本来であれば政治の立場にある者が主導して、方向転換をめざすべきなのですが、日本の場合は、官僚にものを言える政治家がいません。政治が機能していない、政治家がいないという状況が戦後ずっと続いてきているので、余計に官僚の権限が強まり、現在のように、政治家が財務省の軍門に下っている状況となっています。
建前では国民主権と言いながら、実態は官僚主権の国である日本。選挙で選んでもいない官僚が、選挙で選んだ自分たちの代表であるはずの政治家に指示をして、国民に負担を課している構造。
「官僚主権から国民主権への転換」を早くから訴えていたのが石井紘基さんであり、その考えは現在の私の「救民内閣構想」にもつながるのですが、そもそも「官僚主権」の原因とはなんなのでしょうか?
いくつかの要素が複合的にあると思いますが、一番強いものは「思いこみ」でしょう。日本は受験エリートのランキングがある非常に珍しい国です。子どものころから受験競争をやってきて、勝ち残った者が東京大学に行き、東大の中でも「文一で法学部」という文化がいまだにあります。
そして東大の文一を出て官僚となった者の中から、最も優秀な人間が財務省に行き、財務省の中で最も優秀な人間が主計局に行きます。財務省主計局は、官僚社会のエリート中のエリート。官僚主権国家・日本のシステムの中枢にいるのが、彼らです。
世の中のことを知らない、社会性も身につけていない受験エリートが競争を勝ち抜き、財務省に属している。競争を勝ち抜いた財務省主計局に対する、周囲からのエリート信仰。
身も蓋もない話をすれば、競争の途中で脱落した周囲の者たちによる「主計局は賢くて、自分たちは議論しても勝てない」みたいな思いこみが、日本の官僚主権を支えているような気がします。