「あのときから車いすは介助や補助ではなく“かっこいいもの”に変わりました」負けず嫌いの小さな巨人が4回目のパリへ〜車いすテニス 上地結衣_1
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「特別ルールが悔しくて」バスケットから車いすテニスへ

小さい頃から体を動かすことが大好き。得意科目は体育で、休み時間や放課後も、友だちと水泳やサッカー、キャッチボールを楽しんでいた。しかし、障害をもって生まれたため、成長とともに歩きづらくなり、小学4年生からは車いすを使わざるを得なくなった。

車いすで最初にプレーしたスポーツは、バスケットボールだった。「でも、私だけ体が小さくて、特別ルールでした。ゴールのネットに当たればシュートが入ったことになったり、ツインゴールといって低いゴールが設けられていたリ。それはみんなの厚意だったんですけど、悔しかった……。」

その後、姉が中学校の軟式テニス部に入ったことをきっかけに、上地もテニスを始めた。姉と一緒にプレーしたいという思いが動機だったが、テニスの魅力に引き込まれていった。「テニスはバスケと違って、コンタクトスポーツではありません。体が小さくても上手くなれば大人とでも対等に戦えます。いろんな障害の人が同じクラスでプレーできることも魅力でした。」

当時の上地にとって、車いすには介助のイメージが強く、できるなら乗りたくなかったという。しかし、車いすでプレーしている人が、自由にスイスイ動き回る姿に心を奪われた。「カッコよかった。自分も車いすに乗れば思うように動けて、打てるようになるかな、と好奇心の方がまさりました。」ただ、その変化を母親に悟られるのが嫌で、「乗ってみてあげてもいいけど」という言い方をしたのを今でも覚えているという。「このときから車いすは、介助や補助ではなく、可能性を広げる‘かっこいいもの’に変わりました。」

「あのときから車いすは介助や補助ではなく“かっこいいもの”に変わりました」負けず嫌いの小さな巨人が4回目のパリへ〜車いすテニス 上地結衣_2

ジュニアで”負けず嫌い“の才能が開花する

初めての大会出場は、小学6年生のとき。「もっと上手くなって、勝てるようになってから出たかった」が、クラブの人から半ば強制的にエントリーさせられたという。しかしその大会で、まずは1ゲーム取り、敗者戦では2ゲーム取りしたところ、それが大きな喜びとなった。「いやいやだった気持ちが全部ぶっ飛んで、『試合に出たい出たい!』に変わったんです。」

生来の負けず嫌いな性格に火がついた。「対戦相手みんなに勝ちたい! 出場している全員に勝ちたい!という気持ちがどんどん強くなりました。」そして国内大会から国際大会へと活躍の場を広げ、13歳で全日本に初出場。14歳で優勝を果たした。15歳からは海外遠征も増え、上地はまたたく間に世界をまたにかける選手に成長した。

車いすテニスの国枝慎吾選手は、上地がテニスを始めた頃から既にトップ選手として名を馳せていた。「グランドスラムとかパラリンピックとか大きな舞台で自分がステップアップしていく度に、常にもう1歩も2歩前にいて下さって。でも私はひとりでライバル視して…勝手にですよ(笑)、国枝さんよりもいい成績を残したい、国枝さんには負けたくないと思い、それがモチベーションになっていました。」

国枝選手は引退したが、後進の指導をはじめ、様々な形で車いすテニスに関わっている。「今もずっとサポートしてもらっている、という心強さを感じます」。彼の存在は多くの選手たちにとって、目標であり、さらなる高みへと駆り立てる大きな励みとなっている。