交通事故からのパラ陸上との出会い
地元に鈴鹿サーキットがあり、本気でカーレーサーになりたいと思っていた大学2年生のとき(2016年)、バイクの事故で右足のひざ下を切断。以来義足生活となった。
「退院して大学に通うことになって、自分が障害者だということを身にしみて感じ…、そんな自分を受け入れられず、すごく落ち込みました」
そんなとき母親が、三重県の義足のランニングチームに関する新聞記事を思い出し見学に行った。「子どもからおじいちゃんまで、ワーッと走ってたんです。きっと障害者だから元気ないんだろうって勝手に思っていましたが違いました。みんなめっちゃ元気でめっちゃ笑ってるんです」
気づくと自分も走っていたという。
「地面を蹴って走るのは数ヶ月ぶりで、素直に楽しく気持ちよかったです。障害者だからどうとかいう考えがちっぽけに思えて、ネガティブな気持ちがなくなりました。これが陸上との出会いです」
自分が笑顔になれば母親も喜んでくれる。義足で走る動画を見せれば友人たちも喜んでくれた。
「じゃあ、パラリンピックに出たら、もっとみんなが喜ぶだろう」
井谷はこのとき夢をもったのだった。
「野球少年がメジャーリーガーになりたい!と思うように、東京パラに出よう!と思ったんです」
追いかけた夢の東京パラリンピック
「走るのは楽しいって心から思えました。先にゴールした人が勝ちという、単純でわかりやすいところが魅力ですね」
2018年から仲田健トレーナーに師事し、短距離走の本格的な練習を始めた。めきめき頭角を表し、2019年11月、ドバイで開催されたパラ陸上の世界選手権では決勝に進出した。
「細かいことをコツコツ積み重ねてタイムがボーンと出たときは、強い達成感を感じます」
だがこの後、コロナ禍のため状況が変わった。練習は基本一人ですることになり、これが井谷にとって裏目に出た。
「このままいけば、パラリンピック出られる」という慢心と、自分への甘さのため、自覚がないまま練習がおろそかになっていった。仲田トレーナーに、練習の報告やスケジュールの共有を怠ることもあった。
仲田トレーナーからは「天狗になって調子づいてるぞ。自分を見失っているぞ。がんばってると言うが、自分で満足しているだけじゃないか」と叱責を受けたが、厳しく言われても当時は全く響かなかった。それでいて東京パラの選考が近づくと、不安と焦りが大きくなった。
「みんなを喜ばせたい」という気持ちから追いかけた夢だったが、ライバルに抜かれ、東京パラ出場を逃した。