数字の背後に人々の姿が見える
視聴者からの電話やファクスでの反響がすごかった。
視聴率は3.2%。「原発」を議論した時ですら1.3%だったから、深夜としてはすごい数字と言える。この時間帯にテレビを見ている人たちに絞れば、なんと47.8%が「朝生」を見ていてくれたことになる。クレームらしきものもなかった。
ただ、僕は小田のところに行って、しおらしく謝罪した。日下が発破をかけてくれたおかげで何とか形にはなったけど、僕からすれば小田らに啖呵を切ったほどのでき上がりにはならなかったからだ。
そうしたら小田がなんと言ったか。
「田原さん、面白かった。大晦日にまたやってくれ」
大晦日の深夜は、皆、「紅白歌合戦」や「ゆく年くる年」を見ているから、どこの家庭もテレビを付けっぱなし、そこで勝負すれば相当な視聴率を稼げると見たのだろう。
やはり視聴率がものをいった。僕らはこの小田の反応が嬉しくて、第2弾にはもっと力を入れた。
その年の大晦日12月31日に「天皇論第2弾」として生放送した。この時の出演者には小田実や小中陽太郎も入れ、激しい討論をした。
小田と西部が斬り結び、野坂が割って入り、野村が逆襲し、大島がその野村と対決する。7時間という長い放送時間が、あっという間に過ぎた。
終わった時に僕は精根尽きて、椅子から立ち上がれない。そこまで討論に熱中した。視聴率は7.5%だった。伝説の番組として、いまも語り継がれている。
僕がこのケースで言いたいのは、視聴率というマーケットでの覇者になりさえすれば、世の中を変えるような企画に取り組める、それがテレビの世界だということだ。これはさすがに新聞もできない業だろう。
よく視聴率を批判する人たちがいる。そんな少ないサンプル数で実態がわかるのかとか、視聴率の奴隷になってはいけないとか。
僕は考えが違う。数字の背後に人々の姿が見えるというと大仰だが、番組を見てくれる、チャンネルを変えずに見続けてくれる人々の熱い視線、息遣いみたいなものを感じるのだ。
誰に命令されたわけでもない、人々の自発的なチャンネル選択が視聴率という数字を媒介して僕ら制作者にエネルギーをくれるという関係に僕には見える。
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