“元祖お騒がせ女優”としての一面も

また、1989年には小室哲哉プロデュースによる『ドリームラッシュ』で歌手デビュー。翌年の1990年、セカンドシングル『NO TITLIST』はオリコン1位を獲得して第41回NHK紅白歌合戦に初出場。活躍の場が広がるほどに、超多忙な日々を送っていたようで、前出の城下氏も当時の彼女をこう振り返る。

「16歳で“ふんどし姿”でカレンダーになったり、18歳でヘアヌード写真集『Santa Fe』を発売したりと、その過激なプロモーションでも世間の度肝を抜いていきました。
また、翌年には当時、関脇の貴乃花光司と婚約を発表するも2ヶ月で解消するなど、“元祖お騒がせ女優”としての一面も見せました。
ご本人も後のインタビューで10代から20代に過ごした日々について『言葉にできないほど混乱した長い思春期』とおっしゃってましたからね」

150万部以上のベストセラーとなった篠山紀信撮影の写真集『Santa Fe』(朝日出版社)
150万部以上のベストセラーとなった篠山紀信撮影の写真集『Santa Fe』(朝日出版社)
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20代前半は激ヤセ報道や、“りえママ”こと母の光子さんに連れられロスへ移住して活動休止状態になるなど、女優人生の岐路に立たされた時期もあった。

「ですが、30代となって野田秀樹や蜷川幸雄などの手がける舞台に多数出演し舞台役者として開眼。演技の幅が大幅に広がりました。さらに40代で7年ぶりに映画主演となった『紙の月』(2014年)では東京国際映画祭の最優秀女優賞を受賞しています。
若いころにはできなかったような難しい役どころも、このころにはしっかりと演じきれるようになっていましたね」(城下氏)

ステージママとして宮沢を世に送り出した母・光子さんは2014年9月に肝腫瘍のため死去。だが、その当日も宮沢は舞台『火のようにさみしい姉がいて』に出演していた。宮沢は母の死に際し、「(母には)最期に、生きるということの美しさと、すさまじさと、その価値を教えてもらいました」とのコメントを発表。

現在では名実ともに日本を代表する女優となっている宮沢。
そんな彼女の原点となった『ぼくらの七日間戦争』の作者、宗田さんもその活躍を今後も天国から見続けていくことだろう。

取材・文/河合桃子
集英社オンライン編集部ニュース班