小学生のときに出会ったロックンロール
1966年6月に実現したビートルズの来日公演。それに影響を受けた日本のグループ・サウンズ(以下GS)ブームの中で、反体制的で危険な香りを持ち込んだのは、萩原健一(以下ショーケン)という稀有な表現者だった。
テンプターズの『神様お願い』が発表されたのは1968年3月。当時18歳のショーケンの歌声やその立ち居振る舞いからは、ロックンロールの初期衝動とも重なる不良っぽさが、ブラウン管を通してでも伝わってきた。
「ショーケン」と呼ばれる以前。まだ小学生だった萩原敬三は、年が離れた兄や姉と育ったが、いつも向かいの酒屋に遊びに行っていたという。目的は姉の同級生が持っていたレコードで、『監獄ロック』や『ハートブレイク・ホテル』といったエルヴィス・プレスリーの歌を聞かせてもらうことだった。
その2曲が音楽に関するもっとも古い記憶だというのだから、7、8歳の頃には早くもロックンロールに出会っていたことになる。
夢中になっていた姉たちに有楽町の「日劇ウエスタンカーニバル」に連れて行ってもらい、肩車されてステージの山下敬二郎に歓声をあげたこともあった。そして少年は次第にルーツ・ミュージックに深く入り込んだ。
「横浜に住んでいる姉の手伝いに行っていたのですが、山下公園の前には<カマボコ兵舎>というGHQの建物があって、その近くに『ゼブラクラブ』っていう、進駐軍向けのジャズクラブがあったんです。よくそこに行ってブルースとかを聴いていました。だから近所の子と初めて組んだバンドもブルース・バンドだったし、物心がついたときには僕の周りではブルースが鳴っていた。山下公園の前のブルース・ロックっていうのは、僕の幼い頃からの子守唄だったんです」(※) 2018年の春に開催されたライブ、および新曲発売に合わせて行った『TAP the POP』のインタビューより
1965年、中学3年生の時に、エレキバンドのテンプターズのステージに飛び入り参加し、ビートルズの『マネー』とアニマルズの『悲しき願い』を歌った少年は、ギタリストの松崎由治から「一緒にやんない?」と誘われた。
その後、自分で芸名を「萩原健一」と決めてテンプターズに参加し、翌年から渋谷や赤坂、六本木で、パーティーやジャズ喫茶のステージに立つようになった。