一時は引退まで囁かれたあの男が不死鳥のように蘇った。沢田研二、通称ジュリー。6月25日、ジュリーの75歳の誕生日でもあるこの日、「沢田研二LIVE 2022-2023『まだまだ一生懸命』ツアーファイナル バースデーライブ!」がさいたまスーパーアリーナで行われた。

さいたまスーパーアリーナといえば、2018年10月、ライブ開演1時間前に“ドタキャン騒動”を起こした因縁の会場でもある。しかし“ジュリー75歳のバースデー”でもある2023年6月25日のライブには1万9千人ものファンが押しかけ、会場は熱気にあふれていた。

「花の首飾り」「君だけに愛を」「ダーリング」「勝手にしやがれ」「時の過ぎゆくままに」など往年のヒット曲で会場を大いに盛り上げたジュリー。ライブはWOWOWで生中継もされ、3時間半もの長丁場のステージは、ラストまで熱狂に包まれた。

この日は、ザ・タイガースのメンバー、瞳みのる・岸部一徳・森本太郎らもステージに駆けつけ、見事なライブを披露したジュリー。このライブに先立ち放送された特別番組「沢田研二 華麗なる世界 永久保存必至! ヒット曲大全集」(BS-TBS)も話題になるなど、まさに大復活を遂げた。

早すぎたザ・タイガースの解散

だがジュリーのスター人生は実は波乱の連続だった。

ジュリーこと、沢田研二、本名、澤田研二は、昭和23年(1948年)6月25日に鳥取に生まれ、京都で育った。高校を中退し、大阪で岸部一徳・瞳みのるらとバンド活動をしていたところ、ロックンローラー・内田裕也に声をかけられ上京、昭和42年(1967年)、ザ・タイガースのボーカルとして「僕のマリー」でデビューを果たす。ジュリー19歳のときだ。

セカンド・シングル「シーサイド・バウンド」が大ヒット。その後もヒットを連発し、ザ・タイガースは、当時大ブームだったグループ・サウンズのトップグループへと駆けあがる。とくにジュリーはその端麗な容姿と抜群のヴォーカル力から、アイドル的かつカリスマ的人気を得ていった。しかし、ザ・タイガースの活動期間は短かった。

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1977年「週刊明星」のインタビューに応じたジュリー。ザ・タイガースの解散、結婚を経て「俺の生き方は自分で決める、今が一番いい状態」だと語っていた。(「週刊明星」1977年10月2・9日号〈集英社〉より。撮影/横谷弘文)
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「ジュリーと人気を二分していたリードギター・ボーカル担当の加橋かつみがグループのアイドル路線に疑問を抱き、メンバーはギクシャクし始めた。さらに加橋に同調した瞳も脱退の意向を示すなど、メンバー間での不協和音が続きました。
そんななか、加橋の“失踪”騒動が起きたことで、加橋の代わりに岸部一徳の弟の四郎を加入させましたが、問題は収まらず、またグループ・サウンズブームが下火になったこともあり、1971年1月、日本武道館でのコンサートを最後にザ・タイガースは解散したのです」(音楽評論家)