清純派には「奥ゆかしい」や「恥じらいがある」が大事?

しかしながら「清純派」という概念自体は、まだなんとなく芸能界に残っている。

社会が一般女性にそれを求めることは不適切であっても、ある種のファンタジーとして芸能人にそれを求める習慣は、いまだあるような気がしている。

「清純派」なる言葉は不思議だ。辞書的な定義はともかく、かなりふわっとしたイメージの世界だと思うのだが「世間が考えるこの人は清純派、この人はそうじゃない」は大体一致する。

あえて条件を列挙するならば「奥ゆかしい」「恥じらいがある」「すれていなそう」「身持ちがかたそう」「誰のものでもない」みたいなイメージをキープし続けているのが清純派と呼ばれる人たちの共通項かと思う。

最後の「誰のものでもない」を重視すると、デビュー時のキャッチフレーズが「まだ誰のものでもありません」で、いまだに誰のものでもない(未婚である)井森美幸が「クイーン・オブ・ザ・清純派」となってもよさそうだが、世間がイメージするそれは既婚者の吉永小百合だったりするのである。やはり不思議だ。

結婚とか熱愛とかを機に清純派イメージを失くしてしまう人は多いと思うのだが、「奥ゆかしい」とか「恥じらいがある」のほうが要素として大事なのかもしれない。

そういう意味では、2012年の主演映画「北のカナリアたち」において、67歳にして「映画のキスシーンに恥じらい」という記事が出た吉永小百合に勝てる人はなかなかいなかろう。

まあレジェンド級の「清純派」はともかくとして、こういうファンタジーとしての「清純派」を業界全体として守るのが、アイドル業界である。

写真はイメージです
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現代では「清純派」は無理あるファンタジー?

もちろんアイドルのあり方も80年代と現代ではかなり変わっているし、必ずしも「清純派」であることを売りにするアイドルばかりではない。

しかし、一部アイドルグループの恋愛禁止のようなルールは「アイドル」の定義の中にある種の清純さを含ませているからこそ存在するわけで、それが守られることで満足するファンは一定数いるのである。

ただ、裏返していえば「ルール化しないと守れない世界観」なのも事実であり、やはり現代の自然の摂理からすれば無理のあるファンタジーなのだろう。

そしてその世界のルールをしっかり守って決してボロを見せないアイドルは「清純派」ではなく「ストイック」「プロフェッショナル」と呼ばれる。

現代でも「清純派」は作れる。しかしそれを守り通すには鉄の意思が必要だという話である。

では、なぜ昔はそんな「清純派」を「卒業」しなくてはならなかったのだろうか。