14歳でデビューし、16歳でシングル・チャート1位を獲得
1973年5月に14歳でレコードデビューした山口百恵は、自分に与えられた過激なテーマと歌詞を持つ作品に対して萎縮することなく、年ごろの女性の微妙な心理をどのように表現したらいいのかを自ら考えながら、与えられた楽曲を丁寧に歌うことで成長していった。
山口百恵が所属するホリプロダクションの傘下にある音楽制作会社、東京音楽出版の原盤制作ディレクターとして、モップスや井上陽水を手掛けていた川瀬泰雄が新たにスタッフに加わったのは、3枚目のシングル『禁じられた遊び』からだった。
そして5枚目のシングル『ひと夏の経験』が1974年6月に発売されると、ヒットチャートの3位まで上昇して初のベストテン入りとなった。これを機に「山口百恵」は明らかに勢いがついてきた。
そして6枚目の『ちっぽけな感傷』も同じく3位にランクインした後、12月にリリースされた7枚目の『冬の色』で、とうとうシングル・チャート1位を獲得。このとき、16歳。
しかし、一度ピークを極めると、それまでの路線には少しずつ閉塞感のようなものが立ち込め、新しい方向性を打ち出す必要が出てくる。そこでニューミュージックやロック系のアーティストに、楽曲を依頼することが検討され始めた。
候補に挙がったのは井上陽水や矢沢永吉、中島みゆきらの名前であったという。その中にダウン・タウン・ブギ・ウギ・バンドを率いて『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』のヒットを放っていた宇崎竜童と、夫人で作詞家の阿木耀子の名前もあった。
制作ディレクターの川瀬はそんな時に山口百恵本人から、「宇崎さんの歌をうたってみたい」と言われる。当時、アイドル自身が作家についての希望を述べることはもちろん、スタッフがその意見を受け入れて楽曲づくりを依頼することなど、普通では起こりえないことであった。
だが、中学生でデビューしてから2年半、歌手として信じられないほどの表現力を身につけていた山口百恵に対し、制作スタッフたちは揺るぎない意志を持つアーティストとして、対等に接するようになっていたという。
そんな山口百恵が最初に口火を切ったことで、その後のプロジェクトが始まった。そこから山口百恵は本当の自分の歌と出会うことになる。