コロナが災害とは大きく異なるところ
コロナ対策とは単純に比べられませんが、民間人が「政策決定の内側」に巻き込まれていく構図を観察していくと、ひるがえってあの時の自分の立ち位置は何だったかといったことについて見えてくるものがあるのではないか、という感覚はありました。
その意味では、かつてのナイーブな時期の自分の“視角”が、「政府に助言する専門家の目線の近くから政治を観察する」という今回のアプローチの原点になっていると思います。
――ある種の「災害の目撃者」という立ち位置でしょうか。今日(取材当日/2024年1月16日)でいうなら、能登半島地震。
コロナ危機は災害に喩えられることもありますが、私は安全保障政策に近い側面があるように感じていました。災害はおおむね国内問題だけれど、コロナは国境をまたいで広がるから、より影響は深くまた広い。
考えてみると、ゼロコロナの中国で行われた都市封鎖は、いわば「戒厳令」ですよね。ヨーロッパでは私権制約を許容する法制度があるから、自由を重んじるフランス人でさえそうした制約を受け入れていました。
これに対して日本では、そうした議論はタブー視されてきた。過去の歴史を遡ろうとすると、戦前の2・26事件とかが出てきてナーバスな議論になる。日本の政治の地力が問われた事態だったと思います。
後編へつづく
《後編》日本のコロナ「専門家」はなぜ表舞台から消されたのか-有事での「専門家」と「政治家」の駆け引きから見えた日本の政治システムの限界
取材・文/山田傘