清濁併せ呑むのがルールである
私の好きな言葉のひとつに「清濁併せ吞む」というのがある。いわゆる善いもの、きれいなことだけを受け入れるのでなく、汚れたもの、悪とされることも公平に受け入れる度量の大きさをいう。このことわざの由来は中国前漢時代の歴史書『史記』にある。大海は清流も濁流も差別なく受け入れる。水が清らかか否かで選別することはない。
そしてこの語源に、実は法令も関わっている。『史記』の中に「法令は治の具にして制治清濁の源に非ず」という一文がある。統治のために作られる法令は、清濁を裁くものではないという意味である。
法令でさえそうなのだから、それに限られないルールというものは、より清濁を併せ吞むべきではないだろうか。つまり多種多様な価値観をもつ人間同士の共同生活が円滑に営まれるよう、臨機応変で柔軟で、誰かにとってのきれい事だけを押しつけない、その意味でファジーでグレーなもの。
たとえば法定速度は守らねばならないとされているが、北海道の誰もいない見晴らしのよい道路をひとり走るときまで遵守する必要があるだろうか。
だからルールとは、人為的に作るものではなく、人々の日常生活での営みから自然に生じて、皆に利益を与えるがゆえに喜んで受け入れられ続けられるものがもっともよい。
「誰が設計したのでもなく、誰にも理由がわからないような社会過程の産物に従おうとする心構えもまた、強制をなくそうとするなら欠かせないひとつの条件である」とオーストリア出身の経済学者フリードリッヒ・フォン・ハイエクは述べている。
ハイエクは社会の人々に対する特定の価値観や目的の強制を心底嫌った。価値の尺度は個人の内にしかない。だからルールとは、各人の価値観を最大限に尊重し、本人に自らが追求しようとする幸福の内容を決定させ、他者に危害を加えない限りは、他者からも迫害されないようなものであるべきだと主張していた。私も同感である。
ちなみに、談合は現代では法的には絶対的不正とされている。公正な競争を損なうからだ。しかし談合の由来をご存じだろうか。明治時代の初め、来日したアメリカの有名な動物学者を誰の人力車に乗せるかについて、4人の人力車夫が話し合った。そりゃあ4人とも有名人を乗せたいはず。
しかし彼らは奪い合わずに、長さの違う麦わらでくじ引きをして決めた。最も仕事に恵まれていない車夫に譲るためにである。こうして商売の機会を仲間内で融通し合い、業界内での共存共栄を図るという意図も、談合の起源にはあった。競争よりも共存共栄による皆の幸せを求める。こういう一面もあったということは知っておいてもいいだろう。
ルールとは思考停止の遵法精神を要求するものではなく、関わる人々の想像力と相互的配慮を伴うべきものだと思う。白黒つけるのは、法律に任せておけばよい。