ロック界の悲劇的伝説の“次なる犠牲者”
「それからしばらく一緒に暮らそうとやみくもに説得し続けたが、成果はなかった。ある日、必死の訴えが無駄に終わった後に『ジョージを捨てなければヘロインを常用する』と言った。彼女が悲しそうに微笑んだ時、ゲームは終わったと思った」
同年9月には、ドラッグが原因でジミ・ヘンドリックスがこの世を去っていた。同じギタリストとして、ミュージシャンとして、尊敬し合い交流もあったジミの死(享年27)は、クラプトンに大きな打撃を与えた。
さらに私生児だった自分を育ててくれた祖父の死にも直面し、精神的な支えを次々と失っていく。
こうした状況の中、クラプトンは次第にドラッグやアルコールに深く溺れるようになり、現実から孤立してしまう。
その影響はデレク・アンド・ザ・ドミノスのセカンド・アルバム制作中に最悪なものとなった。仕事がまったく手につかず、メンバー間には敵意さえ芽生え、大喧嘩の後、1971年4月に解散。
また、同年10月には『Layla and Other Assorted Love Songs』(邦題『いとしのレイラ』)の録音で親交を深めた、「持ったことはないが持ちたいと思っていた音楽的兄弟のようだった」オールマン・ブラザーズ・バンドのデュアン・オールマンが、オートバイで事故死(享年24)。
薬物や酒だけを友に、無の世界をさまよっていたクラプトンにとって、1970年後半~1973年は完全に時が止まった状態だったに違いない。
このころのステージでいつもサングラスをかけているのは、ドラッグのせいで焦点の合わない視線を隠すためだったと言われている。
彼の目の前には暗闇しかなく、ロック界の悲劇的な伝説(注2)の“次なる犠牲者”となっても何の驚きもなかった。
しかし、音楽仲間たちや周囲の献身的な手助けもあり、治療に専念することを決意したクラプトンは、1974年に音楽シーンへ奇跡的な復帰を遂げることになり、壮絶な日々を生き残った。
本人はこの時期のことを、自叙伝の中で「ロスト・イヤーズ(失われた数年間)」として赤裸々に綴っている。
(注2)
27歳で死ぬこと。ロバート・ジョンソンから始まったブルースマンの呪い。ブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソンなど。その後のカート・コバーンやエイミー・ワインハウスも同様。当時はクラプトンやキース・リチャーズが次なる犠牲者と言われていた。
*参考・引用/『エリック・クラプトン自伝』(中江昌彦訳/イースト・プレス)
文/中野充浩 写真/Shutterstock