グラバーがつないだ財閥の重鎮
スプリングバレー・ブルワリーが倒産した翌年の1885年(明治18年)7月、その跡地に設立したのが「ジャパン・ブルワリー」である。
出資したのは横浜在住の外国人が多く、英字新聞の社主をはじめ、金融ブローカーらだった。初代チェアマンはイギリス人が務め、香港法人としてスタートを切った。香港に本社をおく、いまでいう外資系であった。
香港法人だったのは、日本の会社法がまだ制定されていないこと、日本がまだ不平等条約下にあって日本の法人では経営基盤が脆弱になることなどを考慮してのことだった、とみられる。
有力な出資者にイギリス人のトマス・グラバーがいた。長崎の名所である旧グラバー邸のグラバーと表現した方がわかりやすいだろう。
幕末にはジャーディン・マセソン商会の代理人として武器や弾薬を輸入販売。グラバーは、坂本龍馬が率いた亀山社中とも取引があった。維新後、グラバーは炭鉱開発など行った後、三菱財閥の相談役となった。
この縁で、日本人で唯一ジャパン・ブルワリーの株主になったのが三菱社長・岩崎弥之助だった。三菱をつくった岩崎弥太郎の弟であり、小岩井農場を創設した三人のうちの一人としても知られる。なお、弥太郎はこの1885年2月に急逝していた。
1886年、ジャパン・ブルワリーは増資されるが、日本の有力財界人がオールキャストで顔を揃えていく。日本資本主義の父と謳われた渋沢栄一、三菱の番頭の荘田平五郎、三井物産社長の益田孝、帝国ホテルをはじめ後の東京経済大学をつくった大倉喜八郎、土佐藩出身で逓信大臣を務めた後藤象二郎など、錚々たる面々がジャパン・ブルワリーにかかわった。
醸造技師は当初からドイツ人の専門家を雇い入れることが決まっていた。
明治10年代の半ばまで、輸入ビールでは英国風の「エール(上面発酵)」ビールもそれなりにあったものの、ドイツ風の「ラガー(下面発酵)」ビールの需要が大きくなっていく。
このため、機械設備をドイツから輸入する。さらに、麦芽やホップなどの原料、瓶までをドイツから輸入し、ドイツ人醸造技師のヘルマン・ヘッケルトを招聘した。