発売当初のキリンビールのラベルは不評だった
ヘッケルトが着任した翌年である1888年(明治21年)2月23日、ジャパン・ブルワリーでは第一回の仕込みが行われた。ただし、ここで大きな問題に直面する。
当時は、原則として外国人の行動が居留地内に限られ、自由に外へ出ることは許されなかった。そのためジャパン・ブルワリーは、日本人が経営する代理店を通じての販売体制をつくらなければならなかったのだ。
ちなみにコープランドのスプリングバレー・ブルワリーでは、代理店に当たる日本人が東京などで一手に販売していた(生産量がわずかだったので、扱いやすかったということもあったが)。
ジャパン・ブルワリーの代理店として、名乗りを上げたのは磯野計が設立したばかりの明治屋だった。ジャパン・ブルワリー設立に関わり、取締役に就いたグラバーが推したという説もある。が、定かではない。
津山藩士の次男として生まれた磯野は、東京大学を卒業。三菱財閥の給費留学生となりイギリスに留学する。ここが磯野と三菱との最初の接点だった。1880年(明治13年)10月に日本を出発し、84年に帰国した。留学といっても、学術ではなく、ロンドンの廻船仲立業者で働き、実務を学ぶものだった。
磯野は帰国後一時三菱で働き、三菱財閥の日本郵船相手に、船舶に食料や雑貨を納入する会社を興して共同経営者となった。さらに独立して、1886年2月に明治屋を設立する。磯野の明治屋は三菱の仕事を多く手掛けた。その結果、独立後から2年近く経た87年暮れに、留学費用の4800円は「返済無用」と岩崎弥之助から言われる。
1888年5月、ジャパン・ブルワリーは明治屋と総代理店契約を結ぶ。輸出と、外国人居留地を除く全国でのビール販売を明治屋が担うことになったのだ。契約には明治屋が代金回収の責任を負うことが定められていた。しかし、磯野には財力がなかったため、岩崎弥之助が個人保証を引き受けた。このとき、磯野は30歳だった。
磯野が販売するビールの名前は「キリンビール」に決まる。発案したのは、ジャパン・ブルワリーの株主の一人であり三菱の番頭だった荘田平五郎。荘田が「西洋のビールには狼や猫など動物が用いられているので、東洋の霊獣「麒麟」を商標にしよう」と主張したと言われる。
こうして「キリンビール」は1888年5月に発売される。だが、キリンビールのラベルは不評だった。ラベル中央に描かれた麒麟のイラストは小さく、馬のようにも見えて判然としない。しかも、「キリン」の文字が中央のメインラベルにない。
そこで発売翌年の89年、グラバーの進言によってラベルデザインが変更された。新ラベルは横長の楕円形になり、疾走する麒麟が中央に描かれ、下部には「KIRIN」の文字がしっかり入っている。ほとんど現在のラベルと変わらぬ図柄ができあがる。このラベル変更がきっかけとなって国内で人気を博したキリンビールは、ブランドとなっていく。
なお、磯野計は、キリンビールが発売された9年後の1897年(明治30年)、39歳の若さで急逝した。明治屋の経営は、遠縁の米井源治郎が磯野の一人娘の後見人となり、引き継がれていった。
日露戦争後、ジャパン・ブルワリーが日本法人に移行
日清戦争(1894〜95年)に勝利した日本は、1897年に金本位制に移行した。すでに世界各国は金本位制を採用していて、世界的な銀増産もあって、銀の価値は下落していった。
香港ドル(銀貨)建て資本金を設定していたジャパン・ブルワリーは、為替差損などの不利が生じ、資本金を円建てに改めようと動く。香港政府が円建て資本金への転換を認めなかったため、1899年に香港法人のジャパン・ブルワリーをいったん解散し、新会社「ザ・ジャパンブルワリー・カンパニー」(正式には、「ゼ・ジャパン・ブリュワリー・コムパニー」)を設立する。
円建て資本金の日本法人に移行したのだ。
ただし、本店は相変わらず香港に置き、支店を横浜市山手とした。「The」を社名に冠したのは、新旧を区別するためだった。
文/永井隆 写真/Shutterstock
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