日本初となるビアガーデンを併設したスプリングバレー・ブルワリー
こうしたなか、頭角を現したのが、アメリカ国籍のノルウェー人、ウイリアム・コープランド。コープランドは、1870年に山手でビール醸造を開始した。醸造所の名前は「スプリングバレー・ブルワリー」。
この場所は、居留地となる以前は天沼と呼ばれていた。ビール造りに適した湧水が豊富な土地であり、湧水を動力として水車をまわし、麦芽の粉砕に使ったそうだ。
コープランドはもともとビール醸造技師だった。横浜在留の外国人の間で彼が造るビールは評判となり、東京や長崎、函館などにも出荷する。
やがて日本人も飲むようになっていったばかりか、上海や香港にも輸出した。さらに、1875年(明治8年)頃には、日本初となるビアガーデンをブルワリーに併設してオープンする。
技術者だったコープランドは、日本人の弟子たちに惜しげもなく自分のもっている技術を教えた。人種による差別をしなかったのだ。その結果、弟子、さらに孫弟子たちは、この後全国各地につくられるブルワリーで必要とされ、活躍していくこととなる。
人を育て輩出したという点で、国産ビール産業の勃興におけるコープランドの役割と貢献は、大きい。しかし、良き時代は長くは続かなかった。
1884年(明治17年)、スプリングバレー・ブルワリーは倒産してしまう。経営が傾いた原因は、ビールの善し悪しではなく、内紛にあった。コープランドは、途中から共同経営者になったドイツ生まれのアメリカ人醸造家エミール・ヴィーガントと対立してしまったのだ。
どうやらヴィーガントは、トラブルメーカーだったようだ。
ヴィーガントはジャパン・ヨコハマ・ブルワリーの初代醸造技師だったが、ここでも経営者と衝突して9カ月で職を辞していた。次に勤めた山手のヘフトブルワリーという会社でも、オランダ人社長と喧嘩して辞めていた。
スプリングバレー・ブルワリーのコープランドとの衝突は、裁判沙汰にまでなった。
もっとも、ビールの歴史のない東洋の国で、ビールを造ろうとした人物たちは、もともと個性的で変わり者が多かったのではないだろうか。なので衝突は不可避だったのかもしれない。