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「単純明快なアサヒが、複雑怪奇なキリンに勝った」

アサヒが2001年2月に発売した発泡酒「本生」は大ヒットした。年末までの初年度販売数量は3900万箱と、「淡麗」初年度に匹敵する販売量を記録する。ただ、「淡麗」が「一番搾り」と競合したように、「本生」によって「スーパードライ」の販売量が落ちてしまう現象もあった。

この「本生」のヒットは、キリンVS.アサヒの戦いに決定的な影響を及ぼした。この年、ビール・発泡酒の総市場で、アサヒはついにキリンを抜き、首位に立ったのだ。

実に48年ぶりとなる、ビール業界の首位逆転劇だった。シェアはアサヒ38.7%(前年は35.5%)に対し、キリンは35.8%(同38.4%)だった。

この逆転劇を、キリンのある首脳はこう評した。

「単純明快なアサヒが、複雑怪奇なキリンに勝った」

瀬戸(アサヒビール元社長・瀬戸雄三)は02年4月2日の筆者の取材に対し、次のように話した。

「商品力がまだ強かった「ラガー」を、キリンが96年に熱処理ビールから生ビールに変えたためです。キリンの敵失に助けられた。これはサッポロの黒ラベルの終売(89年2月。同年9月に復活)の時も同じでした」

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企業間競争とは巨大な団体戦である。戦力の優劣だけではなく、敵失が流れを一気に変えてしまう。また、子会社のニッカウヰスキー出身で、2021年からアサヒグループホールディングス社長を務める勝木敦志はこう語る。

「ビール商戦が過熱した1990年代後半、アサヒは中途採用を積極的に行いました。設備はお金で買えても人はそうはいきません。特に営業マンがいなければどうにもならない。

バブル崩壊の影響もあって、特に97年以降、証券会社や銀行、保険会社が相次ぎ破綻していきます。その結果、優秀な人材を採用しやすい環境になったのです。そうした中途採用社員によって、アサヒには自然とダイバーシティ(多様性)の文化が醸成されていったのです」

日本中に衝撃を与えた、「首位交代劇」の直前、キリン社長の荒蒔康一郎は「次の一手」に動いていた。すでに01年商戦の趨勢が見えた01年11月、荒蒔は「新キリン宣言」を社内向けに発表する。その中で、

「これからはアサヒではなくお客様を見よう」「自分たちの原点に立ち戻ろう」

と呼びかけていた。そこには、リベートに頼った過度のシェア競争を繰り広げたことで、逆に首位を奪われてしまったことへの反省がこめられていた。

このとき20代だった若手営業マンは、後に次のように話した。

「トップ企業でなくなるのは悔しかった。しかし、社長が指針を出してくれ救われた。これからは、シェアではなく利益を重視するのだと思った」

同じく30代前半だった女性営業マンは言う。

「2位に後退してショックだった一方、実は安堵した。当時は月末になると、卸にお願いしてビールと発泡酒をたくさん買ってもらっていた。つまり、お金(リベート)を使って〝押し込み〞をしていた。流通在庫は膨らむが、一時的にシェアを上げられた。サラリーマンの給料が出た後の月末は、小売の店頭で売り場を工夫する提案をするなど、営業としてやるべき仕事が本当はあったのに、できなかった。

新キリン宣言が出て、こうした意味のない仕事から解放された。アサヒではなく、これからは消費者を見て仕事をしていくんだと思った」