日露戦争続行に反対した桂
日露戦争終盤、児玉源太郎大将は同じ長州閥の伊藤博文に、もうこれ以上は戦えないと打ち明けた。
「いくら戦地に兵隊を送っても駄目です。進めと指揮する将校がほとんど死んでいますから」
将校は武士出身だから、当時は指揮者として最初に突っ込んでいったから、死ぬ確率がもっとも高いわけである。
「だから、戦いを早くやめてください」と悲痛に訴える児玉の申し入れを伊藤博文は受け入れ、桂に伝えた。
ところが当時の世論は、もうロシアに勝った勝ったとおおいに盛り上がっていた。
実際、日本海海戦は大勝利を収めていたし、陸の戦いにおいても、難攻不落の旅順を陥落させ、奉天会戦でも大勝し、このままどんどん進めというムードだったから、ここで戦いをやめることは世論を敵に回すことに等しかった。当然、伊藤は閣議でも猛反対を食らった。
一方の桂も、世論の戦争続行の声に憔悴し切っていた。
夏の夜、閣議から帰宅した桂が蚊帳の中で講和条約に関する書類を読んでいると、来訪者があった。ほかならぬ伊藤博文であった。
伊藤から「戦争をやめることにようやくみんなを説得したぞ」と伝えられると、二人は手を取り合い、涙を流して喜んだ。その時に蚊帳が大きく揺れ動き、蚊帳に蠟燭の火がついて、それを揉み消すために自分は火傷を負ったと、後年、お鯉が書き残している。
その時に早速天皇陛下にご報告に行かねばならない。夜だから大礼服でなく、お鯉は桂に袴を着せた。非常のこともあるかもと思い、自分は桂の新しい袴を用意していたけれど、その袴をはかせることができたとも自慢している。
桂太郎は陸軍師団長として各地を回っていた時に、何人かの子供をもうけている。当時の師団は二県か三県に一つしか編成されなかったから、考えようによっては県知事よりも権威があった。
当時は、師団長が妾に子供を産ませた場合は、県知事経由で金銭解決するのが一般的で、女性側もそれで了承していた。
ただし、自分の父親が総理大臣になったとなると話は別のようで、子供が二人名乗り出てきて、スキャンダルに発展した。だが、お鯉はこの二人を引き取ってきちんと育て上げている。
大正二年(1913)、桂太郎が没する。お鯉の将来を案じた桂は8万円を渡そうとしていたが、桂家のゴタゴタで5万円程度に減じられたという。だが、それでも大金である。
ところが、お鯉はやはり気っぷがいい。桂が地方に残した娘にカネを送ったり、自分のところに呼んで行儀作法を躾けたりした。結婚する時は、自分がもらった5万円から1万円をつけて立派な青年に嫁にやった。