「お鯉を殺せ」という怒号
日露戦争の話に戻る。戦争をやめ、日露講和条約の締結が決まると、世論は桂内閣を一斉に攻撃し始めた。
新聞で桂の意見に賛成だったのは徳富蘇峰の新聞『国民新聞』一紙のみであった。
徳富蘇峰は政府最上部と親しく、内情を知っていたからだった。その徳富蘇峰の新聞社が襲われる。彼とその社員は刀とピストルで3日間も応戦し、新聞社を守った。
その後、小村寿太郎が全権大使として臨んだポーツマス条約の内容が期待に反して日本側に不利であったことから、民衆や右翼団体が怒り、日比谷焼き討ち事件が起きた。
「国賊桂の妾お鯉を倒せ」ということで、暴徒化した群集が赤坂の桂邸に押し寄せた。
お鯉は使用人を皆帰してから、今度は自分の行き先を探すが、「お鯉を殺せ」という怒号が聞こえるなか、誰も引き受けてくれない。
それでも出入りの植木屋の若い職人が縄梯子を作って持ってきてくれた。暴漢が押しかけてきた時、崖の上の家から縄梯子を伝い、下の家でその夜は過ごさせてもらった。翌朝家に戻ってみると、家の中は鉄砲の穴だらけであったという。
しかし、お鯉には他に行くあてがない。家の雨戸を全部閉めて、植木屋がこっそりと届けてくれる食料と新聞で凌いだ。明かりもつけられない生活が20日も続いた。
そんな危険な時期が続いている時、外出がままならない桂の代理人が訪ねてきて、1万円の手切れ金を持ってきた。お鯉は代理人に突っ返した。
「桂から直接もらうならともかく、代理のあなたからもらうわけにはいかない」
すると、桂から丁寧な手紙が届いた。結局、その時はカネはもらわなかったが、手紙は嬉しかったと、後年のお鯉は綴っている。
こうして振り返ってみると、お鯉の行動は実に筋が通っているし、感激させられることも多い。
ここで私が言い添えておきたいのは、幕末から明治維新にかけて活躍した人たちのお金の問題や女性問題に対して、現代の我々があまり目くじらを立てても仕方がないということである。全然感覚が違うのだ。
たとえば、高杉晋作は維新の原動力となった一人であったが、武器を買うために千両持って長崎に行き、その全額を丸山の女郎屋で浪費している。西郷隆盛にしても、流刑先の徳之島で女性に子供を産ませている。
維新の英雄たちにしても、だいたい皆離婚している。伊藤博文の妻も芸者であった。彼女については、お鯉も頭が下がるほど立派な人だったと言っている。
以上のように、今の感覚でお金に汚いとか、女にだらしないと糾弾したら、立派な人は一人もいなくなる時代だった。
そんな時代だったのである。
文/渡部昇一
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