ドミノ倒し
しかし当方に精神的な余裕が欠けていたり、不意打ちのようにして甲殻類と出会ってしまうと――ある日、Wikipediaでうっかり〈腐敗〉の項を検索して、死んで腐った蟹のカラー写真が出てきたこともある!(現在は腐ったリンゴに代えられているらしいが) ――まずいことになる。
その時点で精神的な視野狭窄状態を呈し、ミクロなパニックが生ずるようである。いや、たとえ心に余裕があっても、過去のミクロなパニックの記憶が心の中に残っていて、それが往々にして精神を恐慌状態へと促すようである。
すると、あれよあれよと嫌悪感がドミノ倒しのごとく心の中の四方八方へと広がっていく。
もはや自分では収拾がつかない。取り返しがつかないような、無力感に似たような、そんな感情が胸を突き上げてくる。コントロールのしようがない嫌悪感が、「あれよあれよ」と拡大していくその勢い、その速度そのものが、まさにわたしに恐怖を体感させている。
さながら蜘蛛の子を散らすがごとく、わたしの心の隅々に嫌悪感が潜り込んでいく。自分ですら探求の困難な我が精神の湿って柔らかな奥部に、みるみる嫌悪感が侵入していくのだ(魚肉に食い込むアニサキスのように!)。
それがどんな精神的ダメージをわたしにもたらすのか、想像もつかない。おそらくこれからの人生を、わたしは遅効性の毒物を飲んでしまった気分で過ごすことになるのだ。そんなろくでもないことを考え、なおさらわたしは浮き足立ち、黒々とした恐慌に鷲摑みされる。
甲殻類は、通常の日常生活を送っている限り危険ではない。おぞましくはあるが、人生を脅かしてくるような存在ではない。わたしが甲殻類と一対一で対峙せねばならないシチュエーションは考えにくい。
けれども、ミクロなパニックを契機に「あれよあれよ」と心の内部で嫌悪感が拡散していくその気味の悪さと手遅れ感は、わたしにとって為す術がないという意味で、まさに圧倒的な存在の手応えを与えてくるのだ。
文/春日武彦
写真/©shutterstock