「いざいざ」がもたらす生理的不快感
甲殻類を前にして、いきなり恐怖心が立ち上がるわけではない。さきほども述べたように、まずは嫌悪感である。そして嫌悪感というものは、いささか屈折した話ではあるが、マゾヒスティックな気分でその対象と戯れることが可能である。
だからスーパーマーケットの鮮魚売り場に生きた海老や蟹が陳列してあったら、よせばいいのに、大概は立ち止まってしげしげと眺めてしまう。「つくづく不気味な生き物だなあ。金を払ってこんなものを買っていく客がいるなんて、信じられないよ」などと呟きつつ、視線を外せない。
蟹の口吻部のあたりに細かな泡が浮いていたりすると「まだ生きているんだなあ」と妙に感心したり、思い出したように鋏や脚が動くと焦って後ずさったり、もはやお化け屋敷気分である。
高原英理の『怪談生活』(立東舎)という怪談随筆を読んでいたら、貞亨4年(1687)開板の『奇異雑談集』(編著者不明)が紹介されていて、そこに不思議な頭を持った人間の話が載っていた。
〈首から上は常と変わらない頭の大きさだが、瓢箪のようで、目鼻がない。耳は両方に少し形があって穴がわずかに見える。頭の上に口があり、蟹の口に似て、いざいざと動く。
器に飯を入れ箸を添えて棚にあるのを妻は取って「物を食わせて見せ申します」と言い、箸で飯を頭上の口に置くと、その口がまたいざいざ動く。飯は自然に入った。二目とも見難い様子であった。
首から下は他とも変わらない人である。肌は桜色、太らず痩せず、手足の指爪の色がよくあざやかである。衣装は華美を極めたものをまとっている。〉
このくだりを読んだときには、一瞬、卒倒しそうになった。蟹の口(のようなもの)が動くときの擬音が「いざいざ」である。いったいどういった言語センスを持っていたら、こんな擬音を思いつくのか。この擬音にはどこかこちらの心を惑わしてくるものがある。
「いざいざ」がもたらす生理的不快感には、最初のインパクトを乗り越えると、つぎにはいっそ怖い物見たさに近い心性が誘発されてくる。中学生の頃、級友に「海老や蟹は姿が醜い」と言ったら、「そんなことないよ。凛々しい姿をしているじゃないか」と反論された記憶を思い起こしてみたり、嫌悪感を覚えつつもある種の屈託に満ちた娯楽として蟹の口の動きを楽しみたくなってくる。