※本記事は春日武彦『恐怖の正体――トラウマ・恐怖症からホラーまで』から抜粋・編集したものです。
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びっしりと……集合体恐怖
専門書の類を読んでも、恐怖症がなぜ生ずるかについて腑に落ちる説明に出会ったことがない。たとえそんなことを解明できても、せいぜいイグ・ノーベル賞しか貰えそうにないからなのか。仕方がないので、せめて自分の甲殻類恐怖を手掛かりにして説明を試みようとしているわけである。
集合体恐怖(Trypophobiaトライポフォビア)についてはどうだろうか。
木肌にびっしりと産み付けられた蛾の卵、限度知らずといった按配に産み落とされたカエルの卵、岩肌を覆うフジツボ、コモリガエルの背中、海ぶどう、ハスの花托(丸い穴の集合)のひとつひとつに種がいちいち嵌り込んでいるところ、そういった小さな穴や突起やブツブツしたものの集合体に過剰反応をするのが集合体恐怖である。
そのバリエーションとして、たとえばこんな光景も含まれるだろう。高橋たか子(1932~2013)の短篇小説「誘い」(『怪しみ』所収、新潮社)の一部で、主人公が女学生の頃に遠足で立ち寄った神社の境内、そこにあった池にまつわるエピソードである。
〈その池ではたくさんの鯉が飼われており、池辺には餌を売る売店があった。
……同じ学年の誰かが、すっとん狂な声をあげて、餌を買い、まわりの友達に分けあたえて餌を投げた。その声に煽られて、何人かが声をあげた。だが、静粛に、と教師がきびしく言い放ったので、すぐ元どおり静まりかえった。その頃は、教師の一声で、全員がまったく従順に言われたとおりになった。
しんとしてしまったその場所に、しかし逆に、みるみる賑わってくるものがあった。餌が投げられたために、池の鯉が全部そこに寄ってきて、密集してきたからである。
水面すれすれのところまで、彼らの赤や黒や白や桃色の体が浮上し、粘った魚鱗がいっそう粘ってみえ、どれもがちょっとでも餌にありつこうと、他のものとたがいに重なりあうほどに、やみくもに寄りあい、人間の赤子の口のような口をあんぐり上にむけてあけている。
1つ1つの口腔が奥まで見えている。なにか目をそむけたくなるほどの生なものをさらけだしているのであった。1匹1匹というより、全部が連続してひとつながりになっているようでもある。それまで隠されていたものがそこに過剰にあらわれ出て、水面すれすれのところで、赤や黒や白や桃色という色になって、理由もなく、いわば暴力的に湧いている。
私はぶるっと戦慄した。叫びたい気分になった。〉
たしかに主人公の「ぶるっと戦慄し」「叫びたい気分になった」は、集合体を前にしたときの感覚そのものである。