ゴキブリの件
ゴキブリは不快害虫と呼ばれるくらいだから、忌み嫌う人は多い。いや、嫌いでない人なんて、ゴキブリの生態を研究する学者でもない限りかなり稀だろう。
たとえ腕っ節の強そうな男性であろうと、夜中に部屋の電気を点けたら床にゴキブリが1匹いた、といったシチュエーションでたちまち恐怖に駆られる人が結構いるようだ。
さすがに悲鳴は上げないものの、息を呑んだまま凍り付くらしい。わたしはそこまでの反応には至らないが、確かに怖い。その怖さは決して表層的なものではなく、それこそ立方体の幾何学的空間の中でわたしと1匹のゴキブリとが対峙しているというまことに抽象的な状況から生み出される何か根源的なもののように直感される。
だから翌日になってわたしはしばしば(本気になって)思い返すのである、「あの感情体験はいったいどのようなことだったのだろう」と。
床の上のゴキブリは、ちっぽけであるにもかかわらず、真っ白いシャツに跳ねた1滴の黒い飛沫のような強いマイナスイメージを伴った存在感を与えてくる。目にした途端、どこか取り返しのつかない気分がわたしの中に生じ、図々しい闖入者といった腹立ちもまた生ずる。
ゴキブリなんて、所詮はゴミを漁るような汚らしく低劣な生き物である。そのくせ、3億年前から地球上に棲息している。なりふり構わぬ生命力を携えた昆虫の姿は、文明という病に感染しその結果として脆弱な存在と化してしまった当方を嘲笑うかのようでもある。
ゴキブリと遭遇した刹那、わたしも向こうも互いに動きは止まる。でもそれはほんの一瞬で、たちまちゴキブリはこそこそ逃げようとする。一直線に視界から立ち去ろうとするなら、まだ理解は可能だ。しかし奴は真っ直ぐに逃げない。あちこちデタラメに高速で這い回り、それはパニックを起こしているようにも、さもなければこちらを挑発しているようにも映る。
さすがにこちらへ向かってかさこそと走って来られると身が竦む。奴は、ときには凄いスピードで壁を這い上りさえする。下手をしたら天井まで走り登り、わたしの頭の上や、シャツの後ろ襟と背中の空隙へ狙い定めたように落下してくる危険すらありそうだ。これは想像しただけで顔色が変わる。
いったいゴキブリは当方に敵意や悪意を持っているのか、逆にこちらを恐れ自暴自棄な動きをしているだけなのか、それすらも判然としないのが薄気味悪い。結局、奴の動きはまったく予想がつかない。