たとえ脚の一本が失われようと
・妙にメカニカルな形態で、何だか無慈悲で冷徹だ。構造上、表情といったものが一切ないのも問題だし、目が心の窓になっていない。およそコミュニケーションだとか共感が成立しない気がする。生物よりも機械に近い。そのくせ、習性や動きが必ずしも合目的的とは限らないところがあって、その理解不能・予測不能なところがますます不条理感を増強させる。
・憎悪や嫉妬、悪意や卑しさ、闇雲で浅ましい欲望といったものに形を与えたとしたら、それはまぎれもなく甲殻類の形状となりそうな気がする。攻撃的、威嚇的な外骨格部分と、ぐちょぐちょと不定形で柔らかい「中身」という構造自体がそうした連想を働かせるのだろう。だから映画『エイリアン』(リドリー・スコット監督、1979)に出てくるあの殺戮本能そのものを体現したかのような怪物が、甲殻類的なものと軟体動物的なものとを巧みに組み合わせてデザインされているのは納得がいくし、『遊星からの物体X』(ジョン・カーペンター監督、1982)に登場する残忍な宇宙生物の正体が節足動物(通称スパイダーヘッド)であったのも当然だと思われる。
・たとえ脚の一本が失われようと、鋏や触角が失われようと、怯まない。そこに彼ら自身の悲しみが生じてこない。つまり身体的な痛みも心の痛みも、生じていないように見える。少しばかり不便になっただけ、といった調子で平然としている。変な具合に冷静なところが、サイコパス的な気味の悪さを与えてくる。ザリガニは共食いをするそうだが、襲われる個体はしばしば脱皮直後であるらしい。脱皮を終えて疲労し、ぼおっとしているところを仲間によって襲われ餌食にされる。そんな醜く獰猛な行動を取るだけで、もうわたしには我慢がならない。
・外骨格ゆえに、生と死との境界線が不明確な印象がある。そもそも外骨格の部分はキチン質だからそこは最初から死んでいる。その内部に輪郭のはっきりしない生命そのものが息づいていると思うと、そうした曖昧さが不安を招き寄せる。晩夏に公園を歩いていると地面に蝉の死体が転がっている。ごちゃごちゃした腹を上にして死んでいる。そう思っていると不意に脚をぞわぞわ動かしたり、不完全で断片的な鳴き声を発したりして驚かせる。ゾンビが生者と死者の中間ゆえに不気味なのであれば、甲殻類にもどこかゾンビ的な気味の悪さが備わっている。
――と、こんな調子でいくらでも理由(ないしはこちらの一方的な忌避感)は列挙できるものの、多くの人たちは「でも、海老も蟹も美味いよ」と言い放ってわたしの嫌悪感など一蹴してしまうだろう。とはいえ、そんな彼らだってエイリアンの造形をおぞましく思っているし、サイコパスには慄然とするに違いないのである。
なぜ、いつどんなきっかけでわたしは甲殻類恐怖に陥ったのか。そのあたりの消息は、いまひとつはっきりしない。気がついたら甲殻類をおぞましいと感じていた。精神分析医は、おそらく、さきほど列挙した「理由」をもっと抽象的かつまことしやかな言葉で説明してみせるだろう。ジャーゴンを駆使して。
だがそれでは同義反復である。恐怖症の理由になっていない。今さら海老や蟹を食べられるようになりたいなどと望みはしないが、せめて理由くらいは知りたいではないか。