「みんなで家畜になればいい」という暗い情熱
多くの日本人が刷り込まれてきた「みんな同じ」の集団主義教育は、日本社会における多様性の広がらなさとも直結している。選択式夫婦別姓も、選択式なのだからそうしたい人はすればいいし、したくない人はしなければいいだけの話だろう。
同性婚も同じだ。女性同士、男性同士、女性と男性のいずれの組み合わせであっても、結婚したいカップルはすればいいし、そうでないカップルはしなければいい。異性カップルでも同性カップルでもそこは等しく同じであるべきだ。
それなのに、多様性に免疫がない日本人は、「自分が気に入らない」という一点だけで理屈を並べ立てて反対する人が多すぎる。自分の人生や損得には一切関係なくても、またそれによって利益を得られなくても、だ。
アイルランドの心理学者サイモン・マッカーシー=ジョーンズは、著書『悪意の科学意地悪な行動はなぜ進化し社会を動かしているのか?』(インターシフト)において、人間の悪意には「反支配的悪意」「支配的悪意」の2種類があると述べている。
前者の反支配的悪意は、不公平に対する怒りや、権力志向の人を罰したいという感情によって引き起こされるものだ。
対して、後者の支配的悪意は、「自分が損をしてもいいから、相手に損をさせたい。そうすることで相手より優位に立ちたい」という支配的な欲求に基づく悪意だという。「自分が多少損をしてもいいから、相手がもっと損をするのであればそちらを選ぶ」という選択をする人は決して少なくないという。
自分と同じか、自分より下の領域まで相手を引きずり落としたい。自分が家畜として主人に従属し、下層にいる分には構わないが、最下層の人が自分と同じになり、自分が最下層になるのは嫌だ。
努力して上昇する向上心や熱意は持ち合わせていないが、下降したくないという感情は人一倍強い。
この悪意もまた、一種の歪んだ自己家畜化の表れだろう。
こうしたタイプの人間にとっては、もしかしたら「みんなで家畜になっている」状態が最も幸福度が高いのかもしれない。
もちろん、どこの国にもどの時代にも、この種の悪意は存在するだろう。だが、失われた20年、30年と経済の低迷が続くなかで、日本ではとりわけこの種の悪意を目にする頻度が増えてきた。
「人の成功よりも人の失敗談が聞きたい」「公務員の給料は下げるべきだ」「性的少数者を特別扱いするな」こうした言説はすべて何の生産性もない支配的悪意のはけ口だと考えていいだろう。