大坂城内堀埋め立ての真実

徳川家康が豊臣家を欺き、大坂城内堀埋め立てを強行したという通説も、学界では否定されつつある。確かにこの逸話は、『大坂御陣覚書』『幸島若狭大坂物語』『元寛日記』『翁物語』など多くの書物に記されている。けれども、これらはあくまでも後代に記された物語である。

笠谷和比古氏が明らかにしたように、大坂城の堀埋め立て工事に関する同時代の一次史料には、これらの話は見えないのである。

細川忠利・毛利輝元ら関東方として従軍した諸大名は国元宛ての書状で、和睦条件に二の丸・三の丸の破却が入っていると述べている。

これに従えば、本丸のみを残して他は全て破却することを、大坂方も同意していたと見るべきだろう。

加えて、『本光国師日記』(金地院崇伝の日記)や『駿府記』を読む限り、大坂城の堀の埋め立て工事には約一ヶ月を要している。埋め立てが和議の内容に違反していたとしたら、大坂方がその間、手をこまねいていたはずがない。

内堀埋め立てに大坂方が同意するはずがない、と思う読者がいるかもしれない。しかしそれは、冬の陣で大坂方が優勢だったという先入観に基づく誤解である。

『大坂軍記』などで大坂方の奮戦が特筆されたため、冬の陣では大坂方が勝ったように思われがちだが、事実は異なる。

確かに真田丸の戦いなどで大坂方は局地的な勝利を得ているが、攻城軍の中から寝返りが出なかった以上、戦略的には敗れたと言わざるを得ない。

そもそも豊臣家は、豊臣恩顧の大名が味方してくれることに期待して挙兵したのに、誰一人馳せ参じなかったのである。

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古来、籠城は外部から援軍が駆けつけてくれることを前提とした作戦であり、外に味方がいなければジリ貧になるだけである。

『駿府記』によれば、大坂方は木製の銃を大量に使用するほど武器の不足に悩まされていた。また『当代記』には、十二月に入って城中の火薬が欠乏してきたことが記されている。

武器・弾薬が底を突きつつある中、大坂方は和睦に応じるしかなかった。大砲に怯えた淀殿が和睦を支持したという話は後世の創作にすぎない。

それにしても、内堀埋め立ては大坂方にとって致命的であるように思える。苦境に立っていたとはいえ、なぜ大坂方は認めたのだろうか。

一つには、和睦を結べば時間稼ぎになる、と判断したからと考えられる。老齢の徳川家康が亡くなれば戦局を打開できる、という希望的観測があったのだろう。いざとなれば、埋められた堀を掘り返せば良いとでも考えていたのかもしれない。

『大坂御陣覚書』は、二の丸・三の丸の破却は大坂方の担当と決まっていたのに、関東方が手伝うと言って破却してしまった、と記す。

これはありそうな話である。

大坂方は、二の丸・三の丸の破却工事を意図的に遅らせるつもりで、講和に同意したのだろう。ところが、その思惑を見抜いた関東方が破却してしまった。

これは厳密には約束違反だが、大坂方にもやましいところがあるので、強く抗議できなかったのではないか。

平山優氏は、大坂城の内堀埋め立ては、打倒徳川は不可能と悟った豊臣家にとっても好都合だったのではないか、と推測している。

大坂城の防御を支える堀が全てなくなれば、牢人衆も再戦しても勝ち目がないことに気づき、それを契機に城を退去するだろうという目算があったのではないか、というのだ。

しかし案に相違して、行き場のない牢人たちは内堀埋め立て後も城に居座ってしまった。

笠谷氏は、内堀埋め立てに憤激する牢人たちの怒りの矛先をそらすため、内堀埋め立てに豊臣家が同意していた事実を隠し、徳川家による謀略と喧伝した可能性を指摘している。