報道は“視点”であり、信じるものではない
──キャストも豪華ですね。
キャスティング作業を始める前に、プロデューサーと「俳優集めが大変だよね」と話をしていたんです。公開されたら反日映画として炎上するかもしれない映画に、誰が協力するんだろうと。
でも東出さんがまず最初に、「森監督が映画を撮るなら、どんな役でも出ます」と言ってくれました。それまで交流はなかったのですが、映画化の話を聞きつけて連絡をくれたそうです。新さんもその段階ではほぼ内定していました。僕以外のスタッフはほとんど旧若松プロの面々で、彼はその若松プロの看板俳優でしたから。
麗奈さんはしばらく悩んでいたけれどOKしてくれました。ただし悩んだ理由は、この作品が批判されたら、などの危惧ではなく、純粋に役作りで煩悶されていたようです。瑛大さんとか水道橋さんとかピエール瀧さんとか豊原さんとかコムアイさんとか、僕の印象だけど、みなほぼ二つ返事で即答してくれました。
オーディションも1000人以上が応募してくれて、かなりびっくりしましたね。みんな尻込みするかと思ったけど、そうじゃなかった。メインの俳優はもちろん、エキストラに志願してくれた人たちまでも含めて、すごく意気込みを感じました。
──事件の当事者ではない人物の視点が加わっているとはいえ、劇中では被害者や加害者の視点も等しく描いています。加害者を断罪するわかりやすい勧善懲悪ではなく、「村八分にされたくない、家族を守りたい」など加害者にも加害者の立場があったことを提示する物語に、なんとも後味の悪さを感じました。
うん。後味が悪い映画にしたかったから、それでいいんです。加害者の側と自分が地続きだということですよね。それは後味がいいはずがないです。
──その視点は、中立である気がしました。
社会が偏っているから、僕の視点が中立に見えちゃうんじゃないかな。『A』を上映をしたときも、時おり観客から「メディアは嘘ばっかり報道していたんですね。やっと真実を見て感動しました」みたいなことを言われることがありました。
嬉しいけれど言わなくちゃならない。作品は真実ではないし、ましてや中立でもない。あくまでも、僕の視点で描いたものだから、これは僕の真実だけどあなたの真実ではない。同じときに、同じ場所で誰かがカメラを回していたら、全然違う作品になったはずです。
『福田村事件』も、僕が思ったことを自分の視点で描いただけ。公平性や中立性は全然意識していません。
今回、映画公開に向けてたくさんのインタビューを受けていますが、何度かされて困ったのが「どんなメッセージを伝えたかったんですか?」という質問。映画を見た人によって感じ方は違うし、その全部が正解だと思っています。「100年前に起きた事件だけど、昔話ではないな」くらいに思ってくれれば十分です。
──私たちは日々、多くのニュースを目にします。監督はどんな視点で捉えるようにしていますか?
自分の視点でいいんじゃないですか。僕は大学でも教えているので、学生から「どのメディアを信じればいいですか?」みたいな質問をされることがある。でも、情報って信じるものじゃないから、「まず信じるって言葉を使った時点で間違いだよ」と伝えています。
今日の取材だって、終わったあとに「森さんって意外と気さくだったね」と思う人もいれば、「やっぱり不愛想で怖かった」と思う人もいるかもしれない。その思いは絶対に記事に反映されます。映像の場合も、カメラワークや編集に作り手の思いは滲む。
そういう意味では、どんな情報も誰かの視点をフィルターにしているわけです。視点がない情報はありえない。あらゆる情報は信じるものではなく、ひとつの視点として受け取るものだと僕は思っています。
例えば沖縄の基地問題の場合、朝日新聞と産経新聞では論調が違いますね。なぜなら、それぞれの視点で書いているから。ただしここでいう視点は、“読者のニーズ”です。日本の新聞は定期購読がメインですから、読者のニーズを絞りやすい。逆に言えば、読者のニーズに支配される傾向が強い。
ニーズに応える形で誌面を作っていくと、産経新聞は「基地は必要」になるし、朝日新聞は「基地は必要ない」という論調になる。どっちも嘘ではないし、どっちが真実かという議論にも当てはまりません。