生存者が抱えていた苦しみ

カメラマンたちより一足先に沖縄入りし、まずは沖縄県公文書館に出向きました。沖縄の貴重な資料が保管されている沖縄県公文書館で、まだ私の知らない対馬丸についての資料を時間の許す限り調べました。

私はこの時、ある人の取材をしたいと考えていました。この対馬丸事件の生存者で、児童たちを引率していた女性教諭、糸数裕子さん(いとかず みつこ 取材時74歳)です。

糸数さんは当時19歳。那覇国民学校で教鞭をとり始めてまだ4か月の新任教諭でした。対馬丸では、割り当てられた生徒40人を引率していました。子どもたちを救いたい一心で、不安に思う両親を説得し引率していったのでした。

結果、その子供たちが亡くなり、自分だけが生き残ってしまった。その後悔から、戦後数十年間はひっそりと暮らされていたようです。その後は引率教諭としては唯一の語り部として活動されていました。そんな彼女に、対馬丸の船体が発見された心境を聞きたかったのです。

沖縄県公文書館で1日を過ごしたのち、カメラマンたちと合流し、糸数さんのご自宅に伺いました。私は取材意図を懸命に説明しましたが、予想通り取材はお断りされました。

「私が、子どもたちを死なせてしまった」学童疎開船「対馬丸」の悲劇と、新任教諭が50年以上も抱えていた罪の意識…「ごめんね」_2


そこで私は、「わかりました。カメラマンたちは帰します。できればひとつお願いがあります。当時の様子やどのような苦しみがあったのかお聞かせ願えないでしょうか。私が今回の番組を作るにあたって、肝に銘じておきたいこともありますし、私の子供たちにその話を伝えて、後世に少しでも残したいと思っています」と伝えました。

これは本心で、彼女の取材は諦めるつもりでした。そうすると、糸数さんは私を家の中に招き入れ、お話をしてくださったのです。本当に丁寧に、ゆっくりとお話ししてくださいました。

ひと通りお話を聞くと、驚いたことに突然、「取材を受けてもいい」と言ってくださったのです。ただ糸数さんからもお願いがありました。糸数さんは、船上慰霊祭に参加したい気持ちはあるのですが、高齢のため参加することにためらいがある。船内ではできるだけ一緒にいて欲しいということでした。

もちろん、私が責任をもって同行することをお約束しました。こうして、元教諭の取材ができることになり、対馬丸が出航した那覇港でのインタビューなどの撮影が実現しました。