関ケ原前に実質的にはすでに「天下人」として存在

すでに慶長四年正月には、家康と、利家・四奉行(前田玄以・増田長盛・石田三成・長束正家)との政治対立が生じるようになっている。

そのうえで閏三月三日に利家が死去した。これを機に、福島正則(羽柴清須侍従)ら七将が三成討伐をはかるという、羽柴家譜代家臣の内部抗争が生じた。

事件は、家康・毛利輝元(羽柴安芸中納言)・上杉景勝(羽柴会津中納言)の三大老の協調によって処理された。その結果、三成は隠居し、奉行を罷免される。

その過程で、家康と輝元は「兄弟契約」を結んでいて、それは家康を兄、輝元を弟とする、家康上位のものであった。また家康は、景勝と縁組みを契約した。

これは実現されなかったが、のちに家康五男の信吉(一五八三〜一六〇三)が景勝の養嗣子になる話があがるので、この時もそれが想定されたのかもしれない。

茶々と秀頼が家康に送った書状の中身…未だ謎が多い関ケ原合戦と、織田信長死去後の秀吉とそっくりの行動をとった徳川家康_2

事件解決後の閏三月十三日、家康は伏見城西の丸に入城した。これについて世間では家康が「天下殿」になったと評価した。

しかし実態は、家康は他の大老や四奉行と協調して政務にあたっていた。もっとも七月頃から、外交を管掌し、また国内の内乱(島津家領国での庄内の乱)への対応にあたるなど、政務担当の側面を強めるようになっている。

しかし大きく変化をみせるのは、同年九月の大坂城西の丸入城であった。そしてそれは「一種のクーデター」であった(谷徹也「秀吉死後の豊臣政権」)。

家康は大坂城西の丸入城にともなって、秀頼のためとして、新たに「御置目・法度」を定め、秀頼の後見人として天下統治をおこなうようになった、とみなされている。

そこでは秀吉制定の「御置目」「御掟」や遺言で禁じられていた、諸大名との起請文交換、諸大名への所領充行、さらには訴訟処理などがおこなわれた。

しかもそれらの政務は、三奉行(前田・増田・長束)によって遂行されたから、それらは紛れもなく羽柴政権としての政務であった。こうした家康の立場は、「天下人」不在のなか、実質的にそれを代行するものであった。家康が在城した大坂城西の丸には、同五年二月から三月にかけて、本丸天守に張り合うかのように天守が建築されもした。

家康は、なお羽柴家の「大老」という立場にありつつも、実質的にはすでに「天下人」として存在しつつあった、とみることができる。