タイプ③受け身の親
このタイプは怒ったり、押しが強いといったことはないが、まちがいなく否定的な影響を与える。支配的な性格の人に唯々諾々と従い、未熟でより感情的な相手をパートナーに選ぶことが多いが、精神的な成熟度の似た者同士が惹かれ合うことを考えると、理にかなっている(ボーエン、1978年)。
ほかのタイプよりはいささか真っ当にみえるが、それも程度の問題だ。物事が過度に感情的になってくると、途端に受け身になり、心のシャッターをおろして、みてみぬふりを決めこむ。
子どもが世の中をわたっていくのに役立つこと――物事には限度や限界があるといったことを教えもしなければ、導いてやることもない。子どもを愛してはいるかもしれないが、力になってやることはできない。
未熟で自分本位なのはほかのタイプと同じだが、おだやかで陽気なことも多く、4タイプの中では一番人好きがする。
子どもと楽しむことはしても、子どもを守らなければいけないとは思わない
自分の欲求が妨げられなければいい親でいられる場合もあり、子どもに多少は心を寄せられる。子どもも親とすごせるのはうれしいが、親が求めるのは自分を尊敬し、気配りをしてくれる相手だ。子どもはそれを満たすだけの存在にすぎないことがあり、この関係は「精神的な近親相姦」ともいえる。親の嫉妬や性的欲求まで引き起こしかねない危険なもので、子どもにとってはやりきれない関係だ。
子どもは、こうした親に助けを期待したり求めたりしても無駄だと悟っている。親が子どもとくつろぎ、楽しくすごし、子どもに特別感を抱かせることがあっても、親が本当は子どものためにそこにいるのではないことを察しているのだ。
実際この手の親は、子どもに有害な家庭状況でもみてみぬふりをし、子どもに自力でどうにかさせようとする。たとえばある母親は、夫が子どもたちに暴力をふるっていたことについても、まるで他人事のようにおだやかに話す。
「パパはときどき、厳しく接することもありましたね」
受け身の親は、トラブルの火の粉が降りかかってこないようにしなさいと教えられてきたことが多い。だから親になっても、子どもと楽しむことはしても、子どもを守らなければいけないとは思わない。最悪の事態になれば放心状態となり、自分の殻にこもるか、嵐が去るのを待つ。
彼らは、大変なことが続くと子どもを見捨てるうえ、自分がもっと幸せになれそうだと思ったら、家族すら放り出していくかもしれない。
実例:家の中のトラブルもみてみぬふりの親
Iさんの母親は短気で暴力をふるった。長い勤務時間の後、むっつりして帰宅。
父親はやさしく、たいてい上機嫌で、家に帰れば、書斎でのんびりすごす。
Iさんの面倒はほぼ姉がみていたが、姉も暴力をふるい、Iさんを見下していた。しかし父親は、Iさんがそんな目に遭っているとは考えもしなかった。
Iさんは父親のそばにいるときだけ安心していられた。父親のやさしさだけが人生を明るく照らしてくれた。愛を感じられた。だから父を尊敬し、父を守らなければと思った。
たとえば、カッとなった母親に居間で叩かれていたとき、父親がキッチンで鍋をガチャガチャしている音が聞こえてきた。Iさんはこの音を、パパはここにいるからね、という合図だと解釈し、父親が暴力を止めに来てくれることは期待しなかった――。
胸が痛くなる例だ。精神的に恵まれない子どもは、大好きな親の行動をなんでも好意的に解釈しようとする。
Iさんには軽い吃音もあり、遊園地に行った際に姉と友人にからかわれ、ヒステリーを起こしたことがあった。父親は、姉たちをたしなめることも、Iさんの気持ちに寄り添うこともなく、笑い飛ばしただけだった。帰りの車内では、みんなで次々にIさんの話し方を真似しては大笑いしていた。