昔から弱かったわけではない

ここ数年低迷を続けているエンゼルスですが、過去をたどれば必ずしも弱いチームではありませんでした。大谷さんが選んだエンゼルスという球団のことを知っていただくためにも、簡単に歴史を振り返ってみましょう。

球団創設は1961年で、60年以上の歴史があります。夢と魔法の王国ディズニーランドから車で約5分のオレンジ郡にあるアナハイム市に、新球場アナハイムスタジアムが完成したのは1966年のことでした。新しいスタジアムのオープンをきっかけにエンゼルスは、「カリフォルニア・エンゼルス」と改名しました。

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「球団ではノーラン・ライアン以来」

そして救世主が出現します。その名はノーラン・ライアン。1972年メッツからエンゼルスに移籍して1年目にいきなりア・リーグ奪三振王に輝き、1973年はサンディ・コーファックス(ドジャース)が持つMLB記録更新の383奪三振をマーク。その年から3年連続で合計4度もノーヒットノーランを達成。1974年には人類史上初めて速球のスピードが100マイル(約161キロ)の壁を突破し、彼のニックネームである「ライアン・エクスプレス」から、日本では「カリフォルニア超特急」として知られるようになりました。

ちなみに大谷さんが活躍すると、球団記録も度々掘り起こされますが、そのときに枕詞のように使われるのが「球団ではノーラン・ライアン以来」とのフレーズです。2022年で言えば、大谷さんが6試合連続で2ケタ奪三振をマーク。ライアンの持つ球団記録、7試合連続には及びませんでしたが、メジャー歴代1位5714奪三振を誇る名投手に迫る勢いでした。

大谷さんが現在のエンゼルスの人気を支えているように、ライアンの活躍によって当時のチームの人気も上昇。1975年以降は毎年100万人以上の観客を動員し、チームカラーを紺から赤色主体に変えたことで雰囲気も明るくなり、同じロサンゼルスのドジャースに人気、実力とも肩を並べられるくらいのチームになりつつありました。

ドジャースに対抗すべく、チーム作りに多大な功績を残した人物がいます。1951年から18年間にわたってドジャースのGMを務め、在任中に8度のリーグ優勝、うち4度の世界一と大繁栄をもたらした球界の大御所、バジー・バベージです。