中国人というだけでいじめられて
――京都を離れた後の生活は?
母が大学で博士号を取るために、名古屋に引っ越したんですが、そこでも中国人というだけでいじめられましたよ。やっぱり仲間に入れてもらえないから独りぼっちで孤独でした。中学生くらいからは日本語も上達したし、日本の文化も分かってきて友達もできたけど、よくグレなかったなって自分でも思います(笑)
――東京に来たのは、いつ頃ですか?
15歳の時です。母が大学の教授になって東京に家を買ったんです。でも、母はその後、鹿児島で働くことになり、私は東京の家で一人暮らし。母に仕送りしてもらって、高校に通っていました。
――「芸能人になりたい」と思ったのはいつ頃だったんですか?
3歳ぐらいの頃から、漠然と「歌手になりたい」って思っていました。幼稚園や学校でいじめられていても、歌を歌うと「上手いじゃん」ってみんながほめてくれたので、「これが私の生きる術だ!」って。だから高校生になったら東京で歌手になろうと決めていました。
それで、エイベックスのレッスン生になって、たまたまオーディションで松浦さん(現エイベックス会長の松浦勝人氏)の前で歌ったら、見出してもらえたんです
――2007年にデビューを果たしましたが、その後は思うように売れなかった?
もう全然でしたね。それで、再起を図るためにSDN48に入ることになったんです。実はSDNのオーディション、2回受けているんですよ。3期生の私が加入したのは、AKB48が大ブームを巻き起こしている時期で「ポニーテールとシュシュ」がヒットしたあたりだったかな。
――当時はまさにAKBブーム全盛。一方で、SDNは今一つブームに乗り切れていなかったように思うのですが……。
そうなんです。だから、めちゃめちゃ悔しくて。48グループ内では、AKBがやっぱり王様だから、何もかもAKBを中心に動いてましたね。たとえば紅白歌合戦でも、私たちは出番が20時でも朝5時にNHKホールに入る。でも、AKBが来るのは、出番ギリギリの時間。その間、ずっとAKBのこと待ってる感じでしたね。
私は、曲がりなりにもソロデビューしている歌手だったのに、キャリアも年齢も下のAKBメンバーの子たちをずっと待ち続けないといけないのは、正直複雑な思いがありました。