また栗城さんのような人間が現れてくるかもしれない

━━『デス・ゾーン』は、主人公の栗城さんのことを知らない、登山のことにも興味がない人が読んでも惹きつけられるものがあると思うんです。

金平
 それ、まさに僕だな(笑)。

━━読み始めた時は「嫌なヤツだなあ」と。チャラけた若いお兄ちゃんっぽくて、マイナスイメージで読んでいる。だけども、いろんな人の証言から本人の素が見えてくるにしたがい、「弱さ」が覗きみえ、憎めないやつに思えてくる。「ああ、これ俺と一緒だ」「俺よりもまだ頑張ってる。だって俺、登山行かないもんなあ」と。

プロフェッショナルな登山家からしたら格好だけに見えたにしても、彼なりに頑張りはしている。その頑張りのメッキが剥げれば剥げるだけ、不思議なことに好感情を抱いている。栗城さんって『ザ・ノンフィクション』に出てくるちょっと情けない主人公の一人に思えました。『情熱大陸』向きではなくて。距離感の近さを感じるんですよね。

河野
 そうですね。最初は彼の実力もわからないから『情熱大陸』向きだと思ったんですよね。

━━そのあたりの、河野さんの捉え方の変化を話していただけますか?

河野 一言でいうと、彼には酷い目に遭わされたんですよね。だんだんと。取材の約束はスッポカされるわ。せっかく通した番組の企画はダメにされるわ。正直に言ってくれればこっちも「ああ、わかった」って言えるようなことも、何の説明もないまま放っておかれたり。最後には一方的に連絡を絶たれるような形で別れが来たんです。

腹が立つ一方で、スッキリもしたんです。もう彼と付き合わなくていいや、と。それ以降の8年間は、ほとんど思い出すこともなかったんですが、彼がエベレストで死んだという予期せぬニュースにふれたときに「まだ登っていたのか」と。「まるで本物の登山家みたいな最期じゃないか?」って驚いたんです。彼はエンターテイナーだと思っていたので。

「登山家・栗城史多を殺したのは私かもしれない」著者・河野啓氏が書籍『デス・ゾーン』に反省と考察を書き加えた理由_5
『デス・ゾーン』著者・河野啓氏

なぜ無謀な挑戦を続けたのか? 私が取材をやめた後の空白の8年間に何があったのか、と。栗城さんの足取りを調べるうちに、想像もしなかったことがわかってきて。その時々の彼の思いを想像して、私自身の心も少し柔らかくなっていく。そんな気がしました。

━━その単行本が出て、文庫本化するまでに2年経過しましたが。栗城さんに対する想いに変化はありましたか?

河野 彼の言葉を聞くことはできませんが、読者の方から「(栗城さんを)抱きしめてやりたくなりました」という声が届くと、私も、さっき心が柔らかくなったと言いましたけど、書いて良かったなと実感します。人間の難しさとか愛おしさとかを少しは描けたのかなと。

文庫の「あとがき」にも書きましたけれど、大学時代に彼が慕っていたKさんは、いまだに最後に会った栗城さんの表情が忘れられない、トラウマのように脳裏に蘇ると。

そんな話を聞いたりすると、彼の人生は、何だったんだろうか。何を求めて、何がやりたかったのか。ただウケればいいと思っていたのか、と考え込んでしまいます。彼自身も整理しきれなかったんだと思うんですよね。

金平 (うなずく)

河野 登山ライターの森山憲一さんが、栗城さんが亡くなる前年に、「このルートを登ると公言するのは正気の沙汰じゃない」「いつか死ぬ。止められるとしたら登山界の人間だろう」と思って彼に会いに行ったそうなんです。でも多くの登山界の人たちは栗城さんを無視した。

黙殺がすなわち登山界の評価なのでしょうが、私は発言すべきだったと思います。専門家が声を上げれば、私を含む愚かなメディアは栗城さんを取り上げることにもっと慎重になったはずです。

「メディアの責任」については、開高健賞に応募した原稿でも多少触れてはいたんですが、「栗城さんを殺したのは私かもしれない」という反省と考察は、本にする際に書き加えました。

なぜそうしたかというと、追加取材と修正稿を重ねるうちに、また彼のような人間がこれからも現れてくるぞ、という不安に駆られたんです。

実現不可能に近いことを、思い込みの激しさから「No Limit」と言い、声援を求める。自分を痛めつけてでもウケたい。認められたい。

「承認欲求」に駆られた人間がこれからどんどん現れてくる、そんな懸念から。一つの警句として、しっかり書いておかなければと加筆しました。