「牛、殺してから行くっぺ」
そんな三瓶さん一家が避難を余儀なくされたのは、震災から4日後の3月15日未明のことだ。親戚が所有する猪苗代町のマンションの一室を避難場所として提供してくれることになったからだという。
恵子さんが回想する。
「近所の人たちがみんな避難する中、15日になって、お父さんが『おめえ1人で逃げろ』って言うんですね。お母さんを連れて避難しろって。でも、私は絶対ダメだって言って、お父さんの手をひっぱった」
三瓶さんが避難を拒んだ理由は牛だ。最後の最後まで、残された牛をどうするか、夫婦で悩み抜いた。
恵子さんが「放そうか」と提案すると、三瓶さんは「絶対ダメだ」と拒んだという。放たれた牛が近隣で悪戯をし、人様のものを壊すからだというのが三瓶さんの意見だった。
いつ家に戻れるかわからない中、紐で繋がれたままの牛たちが牛舎の中で痩せこけて死んでいくのは、恵子さんも容易に想像ができた。
だが、悩み抜いた末、2人は牛を牛舎に入れたまま避難する道を選んだ。
「死んだ頃に、片付けだけには来てやっかんな」
そう牛に声をかけた三瓶さんは、最後の餌をやると、一家はダンプカーに乗り込んだ。車の荷台には、三瓶さんの母親の布団や、かまど、プロパンガスボンベ、なた、のこぎりなどを載せ、3人は直線で80キロ以上離れた猪苗代町に向かったのだった。
「夜になると、切なくなってね。家族や親戚で雑魚寝してるでしょ。声出して泣くと、みんなに聞こえっから。歯食いしばって、声出さないで。でも1週間が限界だったんだよ」
そう話す恵子さんの眼からは、いつの間にか涙が溢れていた。
取材・文/甚野博則
集英社オンライン編集部ニュース班
撮影/Soichiro Koriyama
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