「心の痛みはこの12年間でずいぶんと慣れました」
筆者が三瓶さんと出会ったのは、今年2月26日のこと。
写真家・郡山総一郎氏に連れられ、妻・恵子さん(64)と経営する福島県安達郡大玉村の牧場を訪れたのがきっかけだ。
郡山氏は、震災直後から浪江町を取材し、そこで出会った三瓶さん一家の変遷を12年にわたって撮影し続けている。その郡山氏に、今回の取材のために紹介してもらったのが三瓶さん夫婦だった。
福島県浜通りの北部に位置する浪江町。福島第一原発から浪江町までは、最も近い場所で約4キロの距離。そして、三瓶さん一家が暮らしていた浪江町の津島地区までは約30km離れている。今回、車で津島地区を回ってみると、今も「帰宅困難区域につき通行止め」と書かれた黄色い看板が、あちこちに立てかけられていた。
「今年の1月に見たときは、重機を使って三瓶さんの母屋や牛舎を壊し始めていました」
そう話す郡山氏と一緒に、三瓶さんの自宅があった場所を訪ねたのは2月25日。
牛舎を含めた建物だけで、約1200坪もあった三瓶さんの家はすでに跡形もなく、平に整地された土の上には「除染済」と書かれた白いコーンが1つ置いてあるだけだった。
「心の痛みっていうのは、この12年間で、ずいぶんと慣れてきました」
そう振り返るのは妻の恵子さんだ。
「国の方針は、除染して帰還させる、復興して元の街を作る、でしょ。でも、他の自然災害をみてもわかる通り、なくなったものは元には戻らない。ある程度まで戻そうというのはわかるけど、それは口で言うほど簡単なことじゃないですよ」(恵子さん)
三瓶さんは92歳になる母・安子さんと、妻・恵子さんの3人で、震災当時、浪江町の津島地区で暮らしながら、酪農で生計をたてていた。子供は3人いるが、いずれも震災当時は独立しており、別の街で暮らしていた。
津島地区の一帯は、農業や酪農が盛んな土地で、三瓶さん夫婦は、家の裏にある牛舎で90頭近くの乳牛を育てていた。