障がいのある生徒との交流
その上で言うなら、この記事の大半を占める障がいのある児童・生徒たちとの、少なくとも一部はいじめ加害とは無縁の、たしかに優等生的な関わりではないけれど、むしろだからこそ上辺だけのものではないと感じられる交流の光景は読み応えがある。
小山田氏は、障がいのある児童・生徒の先駆的な受け入れで知られた和光学園で小・中・高時代を過ごした。当時の和光の取り組みに、今日振り返って様々な限界を指摘することはできるだろうし、学校時代の小山田氏の振る舞いの問題点を指摘することはさらに容易だ。
それでも、こうした回想からは同時に、日本の教育史上例外的な取り組みのさなかにあったこの学園の日々から、彼がそれなりに多くのものを受け取った生徒の一人だったことが十分に伝わってくる。
とりわけ、最も多くの言葉が費やされている、学習障がいのある「沢田」(仮名)氏とのエピソードは印象的だ。小学校時代の「実験」(段ボール箱の中に入れて黒板消しで「毒ガス攻撃」を仕掛ける等)が大いに反省すべき行いなのは当然であるが、没交渉の中学時代を挟んで高校で同級生となった2人は、趣味の合う友人というのとは別種の、けれどもたしかな感情の交流を持っていたように思われるからだ。
実のところ、この「沢田」氏との日々は、いじめとはまったく無縁のかたちで、『QJ』「いじめ紀行」の数年前の『月刊カドカワ』誌上ですでに語られていた(1991年9月号)。この障がいのある生徒との交流が、小山田氏の学校生活の思い出深いエピソードのひとつだったのは明らかだ。
だからこそ、こうした貴重な交流のエピソードが、「いじめ紀行」という問題含みの枠組みの中で語りなおされてしまったのは残念なことというほかない。
食糞や自慰の強要という、『ROJ』が広めた誤情報だけは密かにでも修正しておきたいという当時の小山田氏の焦燥は十分に理解できる。しかし修正の機会になるからといって「いじめ紀行」の取材依頼を引き受けたために、小山田氏のいじめっ子イメージはかえって強化されてしまった。
とはいえ、90年代当時の小山田氏の失敗を真の破局へと転換させることになったのは、21世紀になってからウェブ空間で展開された一連の動きだった。次回は、小山田氏にはほとんどどうすることもできなかったこの動きを、今日「インフォデミック」と呼ばれる現象の一例として説明する。
文/片岡大右
小山田圭吾はなぜ炎上したのか。現代の災い「インフォデミック(情報感染拡大)」を考える に続く