1988年5月5日、日本テレビはエベレストの山頂から世界で初めて生中継をした。構想8年、研鑽と試行錯誤を重ね、富士山でのリハーサルを経て、30トンもの中継機材を現地に持ち込んだ。中国、ネパールのスタッフも合わせると総勢285人。北東稜のBCに置いたコントロールセンターから、インド洋上の通信衛星に映像を送った。

「北京時間、午後4時5分、テレビ隊……頂上に……」

ヘルメットに超小型カメラを取り付けて登り、8848メートルの頂から第一声を発したのが中村進さんだった。栗城さんがマナスルに遠征中の2008年10月、ヒマラヤのクーラカンリで雪崩に巻き込まれて亡くなった登山家である。

栗城さんは当時の番組を録画したDVDを持っていた。私は彼の事務所でそれを見せてもらった。パソコンの画面の中で、中村進さんらがエベレスト山頂から小さな鯉のぼりをはためかせていた。登頂日が「こどもの日」であることにちなんだ演出である。

「ボクはこれを少人数でやりたいんですよ。ネットが発達した今なら、できるみたいなんで」
と栗城さんは語っていた。

テレビ関係者から「生中継」の言葉を聞いた瞬間、栗城さんの中にスポットライトが点ったのかもしれない。眩しいばかりの光が、エベレストを単独で登る彼自身を照らしていた――。

自分がその劇場に立つ必然性、遠征資金を募る謳い文句……それらを思案していた栗城さんは、多くのコンサルタントや企業家との関わりから、「自己啓発」という世界に傾倒する。
そして彼は、「登山(見える山)」と「自己啓発(見えない山)」を一体化するアイデアを思い付いた――。「夢の共有」はこうして生まれたのだと、私は推察する。

そしてそれは、億を超える資金を提供する会社と、Yahoo!の協力を得たことで、実現可能な段階に入った。テレビマンが酒宴の席で囁いた言葉を、彼は持ち前のしつこさと営業力で、2年かけて具体性をもった「企画」のレベルにまで高めていったのだ。

しかし私は、この「夢の共有」に拍手を送ることに躊躇いを覚えていた。初めて会ったときの栗城さんは、凛とした表情でこう言ったのだ。

「山と一対一で向き合いたいから単独で登る」と。
彼が向き合う対象は、山だったはずだ。それがいつから「夢の共有」、つまり、人に変わったのか……?