「産み控え」という言葉にギョッとした
このコロナ禍でよく耳にするようになったのが「産み控え」という言葉。その文字面にも、「うみびかえ」という響きにもギョッとする。「産み控え解消に向けて」なんて言葉が加わると、なんかちょっと恐怖さえ感じる。
もちろん、日本の将来を考える上で少子化は大きな問題だし、経済的な理由などから子どもを産みたくても産めないと考えている人たちの懸念に向き合う必要がある。だが、「産む」のを「控えている」状態と一括りにする様子に躊躇いのなさが感じられる。そのあたりが恐怖なのだろう。
少し前、時の政府は「国難」のひとつが少子化である、と言っていた。少子化が叫ばれ始めたのは最近の話ではないのに、あたかもいきなり気づいたかのように、子どもを産むのにふさわしいとされている世代に向けて、その土壌を整えるよりも先に、「産んでほしい」とスポットライトを当ててきた。
あえて死語を用いるが、日本がイケイケドンドンな時代を通り抜けてきた世代とは違って、社会が無条件に好転するものとは思っていない世代は、様々な暮らし方・働き方を慎重に選びながら、なんとか生き抜いている。
出産の適齢期を絞るような記載があった「女性手帳」、女性の育児休業を前提にした「3年抱っこし放題」などの施策が批判されたのは、実態をちっとも知らないんだなこの人たちは、という苛立ちゆえだが、同時に、「っていうか、そもそも、生き方を決めてくんなよ」という苛立ちもあった。個人的には、後者の苛立ちのほうがより強かった。
この度、「父ではありませんが」というタイトルの本を出した。サブタイトルは「第三者として考える」で、帯のメインコピーの二つが「子どものいないあなたにはわからないと言われるけれど」「『ではない』立場から見えてきたこと」である。本の帯に載っている基本情報が、この本の全てといえば全てである。一冊を通して、このことばかり考え続けてみた。
現在40歳の自分は、妻と二人で暮らしている。父ではない。子どもはいない。毎日を坦々と過ごしているのだが、どうやら後ろ指を差されているらしい、とは気づいている。「『国難』を打開してください」「産むのを控えなくってもいいんですよ」などと呼びかけてくる。
あらゆる個人には、あらゆる家族には、事情ってものがある。考え方ってものがある。それは必ずしも明らかにする必要はない。選択肢をたくさん用意することと、選択肢を絞り込むことは相反する。国家がやるべきことは選びやすくするほうだが、得意なのは絞り込むほうなのだ。そっちばかりやってくる。