生の声が、タブーの向こうへと
私たちをいざなう
人為が自然を超えてはならないという言説に思考停止を強いられてきた。だが、欧米のように宗教や哲学に裏打ちされた強固な生命倫理を持たない日本が、他の国よりも生殖補助医療に消極的な理由は何か。生命の神秘への敬虔なる畏れというより、単に頑迷なる保守性ではないか。
生殖補助医療の第一人者である著者が、世界各地のパイオニアから直接拾い集めた生の声――その圧倒的な質量がこの国の保守性を鋭く突きあげて、タブーの向こうへと私たちをいざなう。出生前診断は命の選別と批判され、ゲノム編集は優生学を連想させる。だが、著者は困難な問いを真正面から受け止めて、どうすれば許容されうるかという細い道を世界の科学者たちとともに真摯に探ろうとする。
私自身が生殖補助医療を利用した一人だ。本書の第二章で生殖年齢の上限に近づく女性たちが子どもを産むという選択の先送りのために卵子凍結へと走る模様が綴られており、自分を見ているようで胸がえぐられた。日本にあふれる不妊治療クリニックの狭い待合室は、子どもを持ちたいという切なる願望でもうむせかえるようだった。この私たちの心の叫びは、どんな理性的な説得をもってしても止められないだろう。さらに語弊を恐れずに言えば、我が子に最善を望んでしまうのは親の避けがたい衝動かもしれない。
ならば、この切望にぴしゃりと門戸を閉ざすべきなのか。長年、日本は法律でもなんでもなく、産婦人科学会の会告によって精子や卵子の提供を法律婚夫婦に限定し、同性カップルやシングルは対象としてこなかった。だが、その実、海外に渡って治療を求める人が後を絶たず、国内においても監視の網の目を潜った、より危険な個人間の取引が行われているのが実情だ。それでも形式的に生殖補助医療の利用を限定し続ける今の実務が果して正当性を持つのだろうか。
日進月歩の技術と科学者の謙抑性の狭間で、長年、悩みぬかれたであろう著者の筆はこの社会に一石を投じる。その静かな波紋は、子どもを持ちたいと切望する人々を、そして将来ゲノムの技術によって生まれてくる子どもたちを、社会の中に包含したいという優しさの余韻となって胸に響くのだ。