「能代工マネージャー」の絶対性
監督が「自分の同心」と表現する能代工のマネージャーは、立場上、選手からナメられないために厳しさを全面に出す者が多い。そのなかで西條は異質で、後輩の誰もが「優しい。怒った姿を一度も見たことがない」と語るほどだった。
「田臥はバスケ以外でも雑用をしたりと、とにかく真面目だったし、菊地と若月は自分をイジったりしてましたけど(笑)、プレーも含めてやることはやってましたからね。そういったチームの個性を大切にしたいと思ったんで、あえて自分が『厳しくする必要もないかな』って」
監督をして「お前に任せる」と言わしめたマネージャーが統率するそんなチームは、10月の大阪国体も制し2冠を達成した。
かくして、96年からほぼ同じメンバーで戦ってきた能代工の「勝ち方にこだわるバスケ」は、集大成を迎えようとしていた。
「完成形」だった97年の能代工
2年連続3冠を懸けた、97年12月のウインターカップ。前年の準々決勝で苦戦を強いられた土浦日大を初戦で108-72と退けると、3回戦の新田戦は115-38のトリプルスコアで圧倒。安里が指揮する北谷との準々決勝も128-105と殴り合いを制した。さらに東北のライバル、仙台との準決勝も97-58と快勝だった。
97年のチームは、加藤が「完成形」と称えるほど成熟したチームとなっていた。
山形南との決勝戦。試合前の円陣でのことだ。監督が静かに紡いだ言葉に、2年生フォワードの若月徹は胸を打たれていた。
「若月が行っていたかもしれない高校と試合するんだぞ。今、若月とチームメートで一緒にやれていることを幸せに思え。わかったな」
田臥、菊地勇樹との2年生のトリオで怒られ役となるのは、いつも若月だった。
ゴール下での強さが求められ、オールコートでのルーズボールにも食らいつくなど、40分間、走り続けなければならないフォワードはハードなポジションだ。
1年生だった前年は「ミスを教える」という加藤の意向もあり、「ワンミス交代」も頻繁にあった。それは、ハードワークができる若月が「田臥と菊地よりも重要だ」という期待の表れでもあったのだが、本人からすれば苦痛だった。
「1年の頃は試合に出るのが憂鬱で。『嫌だなぁ。どうせワンミスで代えられるし、怒られるし……』と思ってましたね」