教養があるとインフルエンサーにはなれない

宇野 箕輪の話で言えば、本の中でちらっとだけど彼の音楽活動についての言及があるよね。SKY-HIとかが関わっていた。

レジー そうですね。本には書きませんでしたが、ぼくのりりっくのぼうよみもプロデューサーとして名を連ねてました。

宇野 自分は性格上、そういう「あっ!」って思ったことは全部しっかり記憶するようにしてるんだけど(笑)、自分の仕事のテリトリー的にあのくだりは結構重要な話だと思っているんだよね。ミュージシャンや役者がファスト教養的な空間とどう付き合うべきかっていう。

まあ、「付き合うべきか」というか、長く活動していくつもりなら黒歴史にしかならないから付き合わない方がいいと思うんだけど、そういう磁場に引き寄せられるようなムードは確かにここ数年ずっとあって。まあ、ぼくのりりっくのぼうよみみたいに、もともとそっち側の志向を強く持った人が音楽を利用してたみたいなケースもあるわけだけど。

レジー ファスト教養と文化、ポップカルチャーとの距離感については、音楽サイドにも軸足を置いている自分だからこそ書きたいなというのはありました。そこに関連するテーマで言うと、そもそも「ファスト教養」の着想にあたっては「ファスト映画」の問題が大きくかかわっています。

映画の世界でお仕事をされている宇野さんにとって、「ファスト映画」のようなものが支持される現状についてはどんな考えをお持ちなんですか?

宇野 ファスト映画に関しては、正直に言うと送り手に対しても受け手に対しても哀れみしかないんだよね。だって、映画って楽しいから観るわけじゃない? 自分にとって今でも人生で最もワクワクする瞬間は、ずっと楽しみにしてきた映画をスクリーンで初めて観るときで。その楽しさを知らない人に対して、別に「けしからん!」とか思えなくてさ。

「ごめん、こっちはこんなに楽しいことを知っていて」ってだけ。ただ思うのは、映画って音楽とか他の表現形式と比べても、リファレンスと文脈とそれまで映画を見て培ってきた見識が見方を左右するものだから。そういう「線」ではなく一つの作品としての「点」で接することしか知らなければ、ファスト映画みたいなものに流されるのも無理はないとは思う。

たとえばサッカーとか野球とかのリーグ戦で、ずっとそのチームの戦い方を追ってる人と、たまたま一試合だけ見た人では、その試合の面白がり方が全然違うじゃない? そこで「結果だけ教えてくれ」ってなるとしたら、そのスポーツを見ることがその人に向いてないってこと。それと同じで、ファスト映画はそもそも映画に向いてない人たちの営みでしかないから。

レジー 宇野さんから今あった「映画に向いていない人たち」という指摘は結構重要だと思っていて、本来は映画を観なくてもいい、特に映画を好きなわけでもない人たちが、コンテンツが溢れている中で「周りと話を合わせたい」みたいな動機でファスト映画に接しているわけですよね。

『ファスト教養』でも「上司と話を合わせるための文化コンテンツ」というところから話を始めていますが、「興味はないけどコミュニケーションツールとして知っておきたい」という動機が前に出てきすぎると、どんなジャンルでも本末転倒な状況が生まれてしまうのだと思います。

そういえば、宇野さんは今YouTubeで「宇野維正のMOVIE DRIVER」というコンテンツを展開されているわけじゃないですか。ある意味ではファスト映画の牙城だった場所、今回の本に引きつければファスト教養的な空気がどんどん育っている場所で、ちゃんとした批評を発信することにはどんな意義を感じているんでしょうか。

宇野 たとえば歯医者に行って、歯科助手の人に「YouTube見てます」とか言われるとやっぱりうれしいんだよね。何かをやるなら、そういう雑多な人が集まってるところで何かやりたいというのは自分の仕事の仕方の前提としてあって。

かつてその中心は雑誌で、それがウェブメディアに移って、というのをキャリア的に経験してきたわけだけど、ウェブメディアのプラットフォームとしての力もどんどん弱くなってきていて。結果として、YouTubeという場所に押し出されたような感覚がある。

レジー そこのところ、もうちょっと説明してもらえますか?

宇野 昔、雑誌にはその雑誌固有の読者がいたんだけど、ある時代を境に、表紙のファンに買わせることでしかビジネスとして維持できなくなった。雑誌全体の部数減とかよりも、書き手にとってはその変化の方が深刻でさ。巻頭記事以外ほとんど誰も読まないわけだから。

で、ウェブメディアもある時期までは受け手側に贔屓のサイトみたいな意識があったように思うけど、今ではPV数ってその記事で取り扱ったアーティストが公式にリツイートとかで拡散してくれるかどうかにかかってる。

バズ狙いの社会時評とかゴシップ記事とかはまた別だけど、少なくとも自分が主戦場としているようなジャンルにおいては、ウェブテキストの世界って完全にファンダムに飲み込まれちゃったんだよね。

レジー その感覚はわかります。エゴサし続けているファンに刺さればPV自体は増えて媒体的にはありがたいかもしれませんが、「よくわからないけど褒めてくれてありがとうございます」みたいな感想がばーっと出てくる状況を目の前にすると書き手として思うところはあります。だったら、書きたいことは数字を気にせずにnoteのような個人ブログで書くよって話ですよね。

宇野 もともと潤沢にお金が回っていた界隈じゃないから、一定の読者がついてる書き手は必然的にそうなっていくよね。ただ、それも言ってみれば書き手の小さなファンダムみたいなもので。

それだと受け手との偶然の出会いみたいものがなかなか生まれにくいじゃない? YouTubeをやってるのはその外側で新しい出会いを求めてるからなんだけど、やり始めて早々に謙虚な気持ちになっていった。

レジー 宇野さんらしからぬ発言ですね(笑)。

宇野 いや、これは真面目な話。YouTubeに自分のコンテンツを出すと、再生回数が表示されるでしょ? これまでも雑誌の部数だとか、ウェブ記事のPV数だとか、単行本の部数だとかを自分で把握できる機会はあったけど、YouTubeはそれが受け手にまで全部詳らかにされる。

初めて自分の仕事が「リアルな市場に出た」って感じがするんだよね。2万とかしか再生回数が回らない立場からすると、100万回るっていうのはそれだけでちょっと一目を置かざるを得ないという。

レジー すべてが数字で可視化されることで手段と目的の関係がおかしくなってしまう、結果としての数字ではなくて数字を上げるためのアクションにすべてが支配されてしまう、というのは『ファスト教養』でも触れている話で、ファンダムの力があらゆる場面で増していっているのも自分たちの活動の結果が定量的に確認できるからこそなんですよね。

ただ、その宇野さんの論法だと、それこそファスト映画の方が宇野さんが作っているものよりも価値が高いみたいなことにならないですかね。

宇野 もちろん数字にすべての価値を置いているわけじゃないんだけど、自分ができることはなんなのかってことを考えるきっかけになる。そもそも、教養系で数字を追い求めるってこと自体が矛盾を抱えているわけで。たとえば中田敦彦なんて、本当に再生回数のことしか考えてなくて、それで行き着いたのがまさにあのファスト教養動画なわけじゃない?

レジー そうですね。中田敦彦が自分の動画を「エクストリーム授業」と呼んでいるのも、内容の深さや正確性よりもエクストリームスポーツ的な爽快感を重視しているからなわけですが、そこから発せられる「わかった気になる感じ」はYouTubeという場とめちゃくちゃ相性がいいんですよね。

ただ、それが「教養」なのか?という点については宇野さんが指摘されている通り大きな矛盾があると思います。また、爽快感や刺激そのものに傾倒しすぎると、結果的に陰謀論みたいなものに接近してしまうケースもあります。

宇野 そう。つまり、数字は可視化されるけど、質は可視化されない。それがYouTubeとかソーシャルメディアの特性だけど、そういう環境で数字だけを追い求めていくと「コンテンツの質」よりも先にぶち当たるのが「受け手の質」の問題だと思うんだよね。

この前もTwitterで国葬に反対している人に対して「向上心が圧倒的に足りませんね」「何故、頑張って自分も国葬儀してもらおうと考えない」と投稿したある経済評論家がいて、どこをどう切り抜いてもひどい内容なんだけど(笑)、そんな人にも何十万ってフォロワーがいるんだよね。

それに対して「こういう言論を支持する人に囲まれている状況に同情する」ってコメントしてる人がいて、大体の話はこれで終わっちゃう。それこそ、学歴とは関係なくまともな知性や教養があったら、そんな投稿に盛り上がる人たちが周りにたくさんいるのって耐えられないじゃない?

レジー 教養があるとインフルエンサーにはなれない。

宇野 結局YouTuberとして成功している人たちって、それに耐えられる人なんだよ。アーティストとか役者とかと違って、受け手との心理的な距離も近いしね。そこでスキルとして必要とされるのが、地頭の良さとか話術の巧みさとか、あとは毎日更新する驚異的な勤勉さとかで。

それはレジーくんがファスト教養として指摘している概念とも近い。体系的な知識を持っていることよりも、瞬発力でその場を収めることが重視されていて、そのために活用される知識はインスタントで表面的なものであってもいいっていう。

レジー 確かに。こう並べると、YouTuberというものが「芸術家」ではなくて「ビジネスパーソン」だということがよくわかりますね。そういう人が作るコンテンツを多くの人が「エンターテインメント」として受容しているのが今の文化状況なのか。

宇野 でも、レジーくんの今回の新書とか、あるいは彼とも仕事したことがあるけど稲田豊史さんの『映画を早送りで観る人たち』とかが、そういう構造を解きほぐしてくれて、それが多くの人に読まれていることには、ちょっとホッとするんだよね。そういう社会現象って、外部から総括されることで勢いが止まることがあるから。一方で、それでも残ったものはより先鋭化していくんだろうけど。

レジー ひろゆきみたいにマスメディアの世界でもメジャーな存在になるか、よりアンダーグラウンドになっていくかの二極化みたいなことは起こってますよね。

宇野 ただ、地頭の良さとか話術の巧みさとかが持つ影響力を見くびってると、本当に足元をすくわれてしまう時代だと思う。

宇野氏がホストを務めるYouTube「宇野維正のMOVIE DRIVER」