屋台で串刺しで売られるスナック的存在だった天ぷら
次は同じく和食の定番、「天ぷら」だ。
「もともと江戸時代の屋台料理で、当時の屋台にはカウンターやテーブルがないため、お客さんが持ちやすいように串が刺してありました。また、子どもも買い食いできるようなスナック的な存在でした。
天保(1830~40年)のころになると、天ぷらをおかずにご飯を食べる習慣が生まれ、ご飯を出す屋台も登場。箸とご飯茶碗を持って天ぷらを食べるとなると、串刺しの天ぷらは少々食べにくいため、串なしになっていったのです」
天ぷらといえば「天丼」だが、そのルーツは?
「天丼は明治の文明開化が生んだ日本初の丼もの。しかし、江戸時代の東京の地層からは、牛丼屋にあるような丼の器は発掘されておらず、見つかったのは現在の茶碗くらいの大きさの小さなものだけでした。
つまりそれ以前は丼ものは存在しなかった可能性が非常に高いのです。文明開化以前にも『鰻飯』という現在の鰻丼にあたる食べ物はありましたが、茶碗ほどの小さな“丼鉢”に、「メソ」というどじょうのように小さいうなぎの蒲焼をあわせたもので、現在の鰻丼とはかなり異なり、当時の人々はこれを何杯もおかわりして食べていました。
なぜ通常サイズの丼を作って、一杯で満足できる鰻丼を作らなかったのか。
民俗学者の柳田国男によると、昔の日本には、葬式で死者と別れる際に、ご飯を茶碗一膳だけ食べる“食い別れ”の儀式があり、これは“一膳飯”と呼ばれ、北枕や逆さ水のように忌み嫌われていたんです。それが明治の文明開化でこの旧習を気にしない人々が現れ、明治10年前後に日本初のどんぶりものである天丼が生まれました。
一方、鰻飯から鰻丼への変化は、明治30年代に従来の小さな丼鉢に加え『鰻飯の大丼』というメニューが追加され、養殖ウナギの普及とともに徐々に“大丼”が標準となり、昭和になってやっと呼称が『鰻丼』になりました。
やはりそれまで使用していた茶碗サイズの丼鉢を大きな丼に買い替える抵抗や、お客さんへの配慮で時間がかかったのでしょう」
お寿司も天丼も、日本人のソウルフード。そのなりたちを知ると、味わいも少し変わってくる?