「救い」を求めた人を責めるだけでいいのか
兄弟以上のつきあいをしてきた親友がある宗教に入信し、しつこく勧誘にあって困っているという30歳の男性。気が弱くて意志薄弱な自分は、このままだとのめり込むことになるのではと不安を抱いています。断わると親友とのつきあいが切れてしまうことも心配だとか。ウジウジした相談ですが、美輪明宏さんがバッサリ一刀両断にします。
〈断われないのは友達のせいではなく、あなた自身のせいでしょ。簡単なことよ。断われないなら入って一緒に地獄に堕ちればいいし、地獄に堕ちるのがイヤなら、はっきり断わればいいのよ。自分に甘えちゃダメ。(中略)それにね、彼は、あなたのそういう性格を見抜いて勧誘しているわけでしょ。勧誘すれば、自分の成績があがるんだから、彼はあなたのためだと思っていなければ、親友だとも思っていないということよ。(中略)あなたは宗教に誘われているのではなくて、マルチ商法に勧誘されているだけのことなのよ。間違わないで〉
※引用:美輪明宏著『美輪明宏の悩み相談室 生きるって簡単 苦悩の娑婆を生き抜く法華経の力』(佼成出版社、1987年刊)
相談者の文面からは「気が弱い自分」を肯定し、今のままでいたいと思っている節も伺えます。「親友」にいい顔をしたいという自己保身が、話をややこしくしているとも言えるでしょう。もちろん美輪さんは、信仰を否定しているわけではありません。「信仰と宗教は別ものよ。宗教は企業よ。信仰というのは、自分の心の鍛錬」と言いつつ、インチキな悪徳企業の悪徳商法に騙される愚かさに警鐘をならしています。
どの回答にも「たちまち“改心”させる方法」は書いてありません。何らかの理由があって本人が「信じること」を選んでいる以上、簡単にはいかないということでしょうか。問題だらけに見える宗教も、それぞれ信じることで救われている人たちがいます。責められるべきは救いを求めた人たちではありません。切実でピュアな気持ちを利用して「悪徳商法」に走らせている側です。身内がはまった場合も、気持ち悪さや価値観の違いを「善悪」や「正誤」の問題とごっちゃにすると、ますます話が通じなくなってしまうでしょう。
文/石原壮一郎 イラスト・マンガ/ザビエル山田