子どもと寄り添う青年監督の姿

須江監督と初めて会ったのは11年前のことだった。東日本大震災の発災からわずか1カ月後。当時、須江監督は仙台育英の系列校である仙台育英学園秀光中等教育学校(現・秀光中学校)の野球部監督を務めていた。中学野球に詳しいライターの大利実さんに導かれる形で仙台を訪れた私は、須江監督の運転で被災した沿岸部を回った。

壮絶な光景だった。あたり一面の家屋が流され、更地になっている。等間隔で斜めに傾いた電柱やガードレールに、津波の恐ろしさを感じた。

その後、野球部の集会に顔を出すと、情緒不安定になり涙を流す部員もいた。そんな選手たちを前に私たちは呆然とするしかなかったが、須江監督はこう言った。

「取材に来てくださったことが、彼らにとって励みになると思うんです」

当時28歳の青年監督は不条理な運命に直面した生徒を前に、過剰に勇気づけることもせず、寄り添うように接していた。

埼玉県出身の須江監督だが、仙台育英高入学後は東北で長く暮らし続けている。優勝監督インタビューの開口一番に「宮城のみなさん、東北のみなさん、おめでとうございます!」というフレーズが出たのも、あの絶望的な風景から立ち上がってきた東北の人々の底力を称える意味合いもあったのだろう。

「日本一に招かれるチームになろう」

須江監督は公式戦の試合中に絶えずこんなことを考えているという。

「“この試合が求めているものは何なのかな?”って常に考えているんです。バックネット裏で自分がのんびり試合を見ている感覚で、もう1回見つめ直しています」

レギュラーを決める際にチーム内で選手に関するデータを取り、システマチックに運営している監督としては、いささかロマンチストに過ぎるように感じられる。だが、須江監督は秀光中を率いていた時代から「日本一からの招待 」というチームスローガンを掲げ、「日本一に招かれるチームになろう 」と選手に語りかけてきた。甲子園で優勝するためには、「運」だけではなく、それにふさわしい実力が必要だ。それだけの力をつけて、「野球の神様」から日本一に招いてもらえるようなチームになろう、という意味だ。

今夏、甲子園初戦の鳥取商戦は立ち上がりから須江監督の采配と選手のパフォーマンスが噛み合わず、苦しいスタートだった。それでも、須江監督は「失敗する恐怖に負けて365日、または2年と数カ月の積み重ねを投げ出してしまうわけにはいかない」と割り切り、動き続けた。膠着状態の試合を盗塁で動かしてからは、何をやってもうまくいった。呪縛から解けた仙台育英の選手たちは、甲子園決勝まで一気に駆け上がる。まさに「日本一からの招待」を受けたチームだった。