モノマネ人気、起爆剤となった番組変更
しかし、1980年代後半、フジテレビが歌まね主体の『オールスターものまね王座決定戦』とお笑い要素強めの『爆笑!スターものまね王座決定戦』を分割。当時の名物プロデューサー・木村忠寛の手により、モノマネ芸を取り巻く環境は大きく変容することとなる。
まず、この時に持ち込まれたのが真剣勝負という体である。もちろんおふざけ要素も多分にあったし、何を基準に審査されたのかよくわからない勝負も多々あったが、この頃の出場者は決して「余興を披露する」といった心持ちではなく「この場にかけている」というのがビンビンと伝わってきていた。実際当時は毎回優勝者が号泣するのが定番だったし、下ネタでふざけて審査員の淡谷のり子から毎回怒られていた清水アキラが下ネタを封印してまでタイトルをとりにいった回など、ドラマも多数生まれた。
真剣勝負が熱狂を生むのは、今の『M-1グランプリ』(朝日放送制作・テレビ朝日系列)や『SASUKE』(TBS)の盛り上がりを見ても明らかで、その大会に人生をかける人が増えれば増えるほど加速する。そして大会を通じてスターダムを駆け上がる人間は増えていく。
モノマネの場合は「ものまね四天王」がまさにそれで、大会で好成績を残していたコロッケ、清水アキラ、ビジーフォー・スペシャル(モト冬樹、グッチ裕三)、栗田貫一が四天王としてプッシュされ、全盛期には『ものまねくらぶ』(フジテレビ)、『ものまね珍坊』(フジテレビ)というモノマネ芸としては異例となる毎週放送のレギュラー番組があった。
「似ているだけ」ではトップになれない?
そして、この「ものまね四天王」時代に“世間のモノマネ芸評価軸”も大きく変わった。それまでは似ていることこそが重要であったが、ここで「似ているだけではダメ、そこにいかにヒネりを加えて笑えるエンターテインメントにするか」が重視される時代になったのだ。
結果生まれたのが、栗田貫一のもしもシリーズ(もしも細川たかしが救急車だったらなど)であり、清水アキラのテープ芸(セロハンテープを使って谷村新司などの顔を作る)であった。
そして、元々芸能人の特徴を誇張して音源に合わせて披露する形態模写専門芸人だったコロッケは(あごを突き出した岩崎宏美や鼻をほじる野口五郎など)、声も似せる声帯模写を身につけたことで「似ていて笑える芸」を確立。この時代を象徴する存在となった。
しかし、そのコロッケがプロデューサーとの確執と噂される理由でフジテレビを離れ、日本テレビのモノマネ番組に移籍。これをきっかけに、「ものまね四天王」を中心としたブームは急速にしぼんでいった(尚、先日ラジオで松村邦洋が同プロデューサーのあまりの厳しさに、コロッケがイップス状態になっていたと語っていた)。
余談だが、この頃のビジーフォー・スペシャルの功績として、世間に定番の洋楽スタンダードナンバーを紹介したというのがある。当人たちも「雰囲気だけ」と言っていたようにモノマネとして似ていたかどうかはよくわからない。しかし我々はこの頃ビジーフォーを通じてアース・ウィンド・アンド・ファイヤーやプラターズを知ったのだ。今の若者はどうやって洋楽のスタンダードナンバーの知識を得ているのだろう。来たれ、令和のビジーフォー。