純文学の権威

松波 鴻池さんもそうだと思うんだけど、文芸誌に原稿を応募してデビューした人たちって、「文学しよう」って奮起してくる人って、少なくないですか。なんか自由にやりたくて、「自分なんかでも拾ってくれるんじゃないか」っていう期待を持ってやってきた人たちが多い。

雑誌自体が売れていないわりに、新人賞の応募作の数は毎回多いじゃないですか。つまり、そういう期待の上に成り立っているところもある。

鴻池 僕がまさにそうでしたもん。自由を求めて文芸誌に作品を応募した。

松波 実際はあぶれ者のアウトローの集団なんだけど、純文学っていう空洞が、全体の真ん中にあるようなイメージを日本人は持っている。

天皇の象徴制とかもそうだけど、絶対王政じゃなくて、そこに何らかの(権力などの)空洞を空けておく。それが神々しいと思っている。「神々しい空洞」ですね。

鴻池 そのおかげで純文学は、採算性はないのに、未だにみんなからある程度、ありがたがってもらえるんだ。純文学に「権威」が付与されるメカニズムだ。

でもそう考えると、実際のところ、僕たち純文学作家って全然「ガチガチ」じゃない。松波さんのおっしゃるように「ゆるゆる」な集団ですね。

松波 「ガチガチ」で言えば、エンタメ小説の人の方が純文学の人よりも、ガチガチな印象です。ちゃんと作法を持っているし、言葉をそのジャンルに適した形にしている。ルールに従って、起承転結を守ることから含めて、言葉をちゃんと日本語、国語に落としてくる。

一方でいわゆる純文学の方は、それ以前の習いたての日本語でもいいし、生成される前、形になる前の言葉でもそのまんま出せる。やっぱり形にまとめちゃうとその分、力を失うと思うんですよ、言葉自体が。私は言葉そのものを楽しみたいんです。

こんなに自由にやって、何でもありって構えなのが「純文学」。鴻池さんは、純文学ということを意識して書いていますか?

鴻池 時々意識します。何だろうな。やる気が起きるんですよ、僕の場合は。「自分がやっているのは純文学なんだ。だから売れるとか売れないとか、そういうのじゃないんだ。崇高な行為をしてるんだ。」っていう気分の持ち上げ方をしています。

とはいえ、出来上がった自分の作品を崇高に思っているかというと、そんなことはないですね。やっぱり自作は、自分にとってカジュアルなものですね。

出版不況の中、芥川賞&純文学に未来はあるのか?_2
鴻池留衣
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後編に続く。→複数の他人の言葉を、自身の小説に取り入れる松波太郎にとって、「小説」とは何なのか?(後編)

撮影/長谷部英明 編集協力/株式会社ロト(佐藤麻水)