孤立していくブライアン・ジョーンズ
野心満々の戦略家だったアンドリューは、ストーンズの人気が出てくるにしたがって、レパートリーにおいてもブライアンが主張するブルーズやR&Bのカバー曲ではなく、多額の著作権印税が入ってくるオリジナル曲を優先していった。
そこでミックとキースによる曲作りが始まると、全米1位になった「サティスファクション」を筆頭に、世界的なヒット曲が続々と生まれていく。当然のことながら、二人の作る楽曲がその後のストーンズの方向性を主導していく。そのことがブライアンを傷つけ、孤立させることにもなった。
1965年9月、そんなブライアンに運命の出逢いが訪れる。ドイツ公演でモデル/女優のアニタ・パレンバーグと恋に落ちるのだ。似た者同士の二人は意気投合し、当時のムーヴメント“スウィンギング・ロンドン”を象徴するカップルとなる。
しかし、次第に音楽的なリーダーとしての役割を奪われたブライアンは、出る幕が減るにしたがって鬱屈し、現実逃避のためにドラッグへの依存度が増していった。そこに若者たちへの悪影響を問題視し、「ストーンズ潰し」を狙った警察に真っ先に目をつけられて逮捕されるなど、精神的に打ちのめされていく。
1967年。ブライアンとアニタとキースは、イギリスでの体制とのトラブルから逃れるためにモロッコの旅へと出向く。
一方でアニタとの関係は過度なストレスもあって旅の途中で決定的に崩れ去り、遂に彼女は心を寄せていたキースを選んで逃避行を決断。民族音楽のジャジューカを録音する成果は生まれるものの、すべてを失ったブライアンの心はズタズタだった。
慢性的なうつ病は日増しに悪化し、レコーディングに来ても演奏に参加できないほどの酷さで、そのうちに休養と入院を繰り返す状態になった。
静かな生活を求めて、ロンドン郊外のコッチフォード農場(以前は『くまのプーさん』の著者A.A.ミルンが所有)に住むようになったのは、1968年の晩秋から冬にかけてのことだ。
愛するアニタを失って以来、酒やドラッグに浸り切るブライアンは、新しいガールフレンドを呼びつけては、虚しい現実逃避の日々を送っていた。















